カール・フォン・リンネ
概要
生きものを属と種の二語で呼ぶ決まりを作った。名前の付け方を揃えたことで、離れた土地の研究が初めて突き合わせられるようになる。
関わったできごと(2)
『自然の体系』AD1735年 · 著者二名法AD1753年 · 定めた本文
1707年5月23日、スウェーデン南部スモーランド地方の村ロースフルトに生まれた。父は村の牧師補で、庭いじりの好きな人だった。家の名の「リンネ」は、屋敷のそばに立っていた菩提樹(シナノキの仲間)にちなんで父が付けたものだという。息子も幼いころから花の名を覚えることに夢中で、父のように牧師になることは望まなかった。

ルンド大学、ついでウプサラ大学で医学を学んだ。当時、植物学は薬草を見分けるための、医学の一部だった。若いころから大学の植物園で講義を任されるほど目立っていたが、家からの仕送りは乏しく、暮らしは苦しかった。
1732年、王立の学会から資金を得て、北のラップランドへ半年ほどの調査旅行に出た。歩いた道のりは数千キロに及んだと本人は書いているが、これは誇張とされる。それでも、北の植物を記録した『ラップランド植物誌』は評判になった。先住民サーミの暮らし、トナカイの飼い方や衣服を書き留めた部分は、民族誌としても読まれている。
1735年、オランダへ渡り、ハルデルウェイクの大学で数週間のうちに医学の学位を取った。同じ年、わずか十数ページの大判の冊子『自然の体系』を出版する。植物、動物、鉱物を「綱」「目」「属」「種」という階層に並べた一覧だった。植物は、花の雄しべと雌しべの数と形で分けた。花を夫婦や婚礼に見立てた説明は、「みだらだ」と非難を浴びたが、誰でも花を数えれば分類できる手軽さで広まった。

1738年に帰国し、ストックホルムで医者を開業した後、1741年にウプサラ大学の教授になった。ここから約30年、植物園と講義で多くの学生を集めた。夏の野外実習には数百人が集まり、旗を立て、太鼓を鳴らして行進したという。
本当に後世に残ったのは、名前の付け方だった。それまで植物の名は、特徴を並べた長いラテン語の説明文で、学者ごとに違っていた。リンネは1753年の『植物の種』で、すべての種に属の名と種の名の二語からなる短い呼び名を添えた。動物については、1758年の『自然の体系』第10版で同じことをした。いまの学名は、植物はこの1753年、動物はこの1758年を起点に数えている。

人間にも学名を付けた。ヒトをサルと同じ「霊長目」に入れ、ホモ・サピエンス(賢い人)と名付けた。神の似姿である人間を獣と同じ並びに置くことには反発があったが、リンネは体の作りから見れば区別のしようがないと書いている。
弟子たちを「使徒」と呼んで、世界中へ標本を集めに送り出した。その数は17人とされ、旅先で死んだ者も少なくない。その一人ツンベルクは、オランダ商館の医師として長崎の出島に来て、日本の植物を集めて持ち帰った。ソランダーはクックの航海に加わった。

自信家でもあった。「神が創り、リンネが整えた」という言葉が、本人の気に入りの言い回しとして伝わっている。1757年に貴族に列せられ、カール・フォン・リンネと名乗った。
晩年は脳卒中を繰り返し、記憶も衰えた。1778年1月10日、ウプサラで亡くなった。70歳だった。死後、集めた標本と蔵書はイギリスの若い博物学者に買い取られ、ロンドンにリンネ協会ができた。1858年、チャールズ・ダーウィンとウォレスの進化の論文が初めて発表されたのは、この協会の会合である(『種の起源』)。種は変わらないと考えていたリンネの名を冠した場所で、種は変わるという説が世に出た。

一方で、リンネは人類を肌の色と住む大陸で四つに分け、それぞれに「気短か」「怠惰」といった性格の記述まで付けた。この分類が、のちの人種論に引かれていく。分類の便利さが、そのまま害になった例でもある。それでも、名前を揃えたことで、離れた土地の研究者が同じものを同じ名で呼び、記録を突き合わせられるようになった。その仕組みは、いまも新しい生きものが見つかるたびに使われている。