人物

イブン・アル=ハイサム

Ibn al-Haytham
AD965年 – AD1040年頃(享年75・推定)
ファーティマ朝重要度 4

概要

目から光が出るのではなく、物から出た光が目に入るのだと示した。主張を実験で確かめるという手続きを、方法として書き残している。

別名

アルハゼン

所属

ファーティマ朝

関わったできごと(1)

『光学の書』AD1021年頃 · 著者

本文

イブン・アル=ハイサムは965年ごろ、イラク南部の港町バスラに生まれた。ヨーロッパでは、名前のハサンがなまったアルハゼンの名で知られる。当時のバスラはアッバース朝のカリフの都バグダードに近い学問の町で、ギリシア語の数学や天文学、哲学の書物が、すでに一世紀以上前からアラビア語に訳されて読まれていた。彼はその中で、エウクレイデスの幾何学や、クラウディオス・プトレマイオスの天文学と光学を学んだ。

イブン・ハイサムのイメージ像
イブン・ハイサムのイメージ像Wikimedia Commons unknown, probably Muhammad Atiyya Al-Ibrashi (1897 –1981). · Public domain

若いころの経歴ははっきりしない。のちの伝記作者たちは、彼がバスラで役人を務めたが、学問に専念するために職を離れた、と書いている。名声はやがてエジプトにも届いた。10世紀の後半にカイロを都として栄えていたファーティマ朝(ファーティマ朝の成立)のカリフ、ハーキムが、彼を招いたのである。

伝えられる話によると、イブン・アル=ハイサムは、ナイル川の水量を調節する工事ができると豪語していた。毎年の氾濫が大きすぎても小さすぎても、エジプトは飢える。カリフは彼にその仕事を命じた。だが、川をさかのぼって南のアスワンの近くまで行き、古代の人々の築いた巨大な建造物を見たとき、彼は、これほどの技を持った人々にもできなかったことが自分にできるはずはない、と悟ったという。気性の激しさで恐れられていたカリフの怒りを避けるため、彼は気が狂ったふりをし、カリフが1021年に死ぬまで、家に閉じこもって暮らした。そしてその間に、主著『光学の書』を書いた、とされる。

1572年にラテン語に翻訳されたイブン・ハイサム(アルハゼン)の書 Thesaurus opticus (光学の書)の表紙。太陽光を集めてシラクサ沖の軍艦を燃やすアルキメデスの装置が描かれている
1572年にラテン語に翻訳されたイブン・ハイサム(アルハゼン)の書 Thesaurus opticus (光学の書)の表紙。太陽光を集めてシラクサ沖の軍艦を燃やすアルキメデスの装置が描かれているWikimedia Commons Unknown illustrator Unknown illustrator · Public domain

この話は、彼の死後かなりたってから書かれた伝記に出てくるもので、どこまで事実かは分からない。ただ、晩年の彼がカイロで暮らし、ユークリッドやプトレマイオスの書物を書き写して売り、それで生計を立てていたことは、複数の伝記が伝えている。

『光学の書』は7巻からなる大著で、1011年から1021年ごろにかけて書かれたと考えられている(『光学の書』)。見るとはどういうことか。古代ギリシア以来、二つの説が争っていた。目から光の線のようなものが出て物に届くから見えるのだ、という説と、物の側から形の写しのようなものが目に入ってくるのだ、という説である。イブン・アル=ハイサムは、どちらもそのままでは成り立たないと論じた。太陽を見つめれば目が痛む。目から出るものが遠い星まで一瞬で届くとは考えにくい。そこで、物の表面のあらゆる点から光が四方へまっすぐ進み、そのうち目にまっすぐ入ってくる光が、目の中で物の像を結ぶのだ、と考えた。光の進み方の幾何学と、目の解剖学と、見る心の働きとを、一つの理論にまとめようとしたのである。

『光学の書』に関わる図版:Book of Optics Cover Page
『光学の書』Wikimedia Commons Ibn al-Haytham, Vitello, Friedrich Risner · Public domain

彼は、議論だけで決めずに、確かめることを重んじた。暗い部屋の壁に小さな穴を開けると、外の景色が反対側の壁に逆さに映る。部屋の外に何本かのろうそくを並べると、それぞれの像が壁に映り、一本の前を手でふさぐと、その像だけが消える。光はそれぞれの点からまっすぐ進み、互いに混ざらない、ということがこれで分かる。彼は光の反射と屈折を、筒や板、鏡や水を使った装置で調べ、その手順と結果を細かく書き残した。証明の手続きを指して彼が使った検証という意味の言葉は、のちの研究者たちに、実験という考え方の早い現れとして注目されている。

彼は、権威のある書物でも疑ってかかった。プトレマイオスの天文学の矛盾を指摘する書物を書き、その序で、真理を求める者とは、先人の書物を読んでそれを信じ込む者ではなく、それを疑い、理と証拠に従う者である、という趣旨のことを書いている。そうすれば、自分自身の書いたものも疑うことになる、とまで言っている。

イブン・アル=ハイサムの肖像
イブン・アル=ハイサムの肖像Wikimedia Commons Adolph Boÿ, engraved by Jeremias Falck. Used as the frontispiece to Johannes Hevelius, Selenographia, 1647 · Public domain

光学のほかにも、数学、天文学、哲学について100を超える著作があったとされ、そのうち数十が残っている。球面の鏡で、ある点から出た光がどこで反射して目に届くかを求める問題は、のちにヨーロッパの数学者たちを悩ませ、アルハゼンの問題と呼ばれた。月が地平線の近くで大きく見える錯覚を、目ではなく心の判断の問題として論じたことも知られている。

イブン・アル=ハイサムは1040年ごろ、カイロで亡くなった。同じ時代の東方には、イブン・スィーナーやアル=ビールーニーがいた。

イブン・アル=ハイサムによる人間の眼の構造図。視交叉の描写が見える(『視学の書』写本)
イブン・アル=ハイサムによる人間の眼の構造図。視交叉の描写が見える(『視学の書』写本)Wikimedia Commons Copy of the Kitab al-Manazir (MS Fatih 3212, vol. 1, fol. 81b, Süleimaniye Mosque Library, Istanbul). · Public domain

『光学の書』は、12世紀の終わりか13世紀の初めにラテン語に訳され、ヨーロッパの学者たちに読まれた。13世紀のイギリスのロジャー・ベーコンらはこれに学んで光学を論じ、1572年には印刷本も出た。17世紀の初め、ヨハネス・ケプラーは目の中の水晶体が網膜に像を結ぶことを示したが、その議論もアルハゼンの光学の流れの上にあった。2015年、国連が定めた国際光年には、『光学の書』の千年を記念する催しが各地で開かれた。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD965年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →