できごと

ラマン効果の発見

Raman scattering
AD1928年2月28日
重要度 3
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概要

海がなぜ青いのかを確かめようとして、光が分子で散乱するときに波長が変わる現象を見つけた。太陽光と水銀灯と分光器だけで。アジア人初の科学のノーベル賞になる。

場所

コルカタ
22.57°N 88.36°E · インド・西ベンガル州

関わった人(1)

C・V・ラマンAD1888年11月7日–AD1970年11月21日 · 発見

本文

チャンドラセカラ・ヴェンカタ・ラマンは1888年、南インドのティルチラーパッリで、物理と数学を教える教師の家に生まれた。早くから飛び抜けて優秀で、マドラスの大学を最優等で卒業し、在学中に光の回折についての論文をイギリスの雑誌に載せている。だが体が弱く、イギリスへの留学は医師に止められた。当時のインドでは、科学者として身を立てる道はほとんどなかった。ラマンは役人の採用試験に首席で合格し、1907年、カルカッタの財務局に職を得た。

カルカッタで、ラマンは一つの看板を見つける。インド人の医師が私財を投じて作った「インド科学振興協会」の研究所だった。ラマンはそこを訪ね、勤めが終わった夜や早朝に、研究所で実験をさせてもらうようになった。役所勤めをしながら、楽器の弦の振動や光についての論文を次々に発表した。その仕事が認められ、1917年、ラマンは役所を辞め、カルカッタ大学の物理学の教授に迎えられた。給料は大きく下がったが、迷わなかったという。

『光の分子散乱』(1922年)の最初のページ
『光の分子散乱』(1922年)の最初のページWikimedia Commons Sir Chandrasekhara Venkata Raman · Public domain

1921年、ラマンはイギリスでの大学の会議に出席した帰り、船の上から地中海を眺めていた。海は深い青をしている。当時、イギリスの物理学者レイリー卿の説明では、海が青いのは空の青を映しているからだとされていた。ラマンはその場で偏光のプリズムを取り出し、海の表面で反射する空の光を消して海を見た。それでも海は青かった。青さは、水そのものが光を散らすことから来ているのではないか。船の上で書いた短い論文を、ラマンは港に着くとすぐにイギリスの科学雑誌に送った。

カルカッタに戻ったラマンは、弟子たちとともに、液体や気体、透明な固体の中で光がどう散らばるのかを調べはじめた。1923年、アメリカのコンプトンが、X線が電子に当たって散乱するとき、波長が長くなることを示した。光も、粒のようにふるまう。もし目に見える光でも、物質に当たって散乱するときに色が変わることがあるとしたら。ラマンはそれを探し続けた。

180度後方散乱式のラマン分光測定装置の模式図
180度後方散乱式のラマン分光測定装置の模式図Wikimedia Commons Toommm · CC BY 4.0

1928年の初め、ラマンと弟子のK・S・クリシュナンは、ついにそれを捉えた。太陽の光を望遠鏡で集め、色ガラスのフィルターで一つの色だけを取り出して液体に当てる。散らばって出てくる光を、反対の色のフィルターを通して見ると、本来なら遮られて見えないはずの光が、かすかに見えた。散乱した光のごく一部が、元とは違う色、つまり違う波長に変わっていたのである。2月28日、ラマンは水銀灯の光と分光器を使ってこれを確かめ、ほどなく新聞と科学雑誌を通じて発見を発表した。

起きていたのは、こういうことだった。光が分子に当たると、ほとんどの光はそのままの波長で散らばる。だが1000万個に数個ほどの割合で、光がエネルギーの一部を分子の振動や回転に渡したり、逆に分子から受け取ったりして、波長を変えて出てくる。そのずれ方は、分子の種類と構造によって決まっている。散乱した光の色のずれを測れば、その物質が何でできているのかが分かる。物質の指紋のようなものだ。

C・V・ラマンの肖像
C・V・ラマンWikimedia Commons Nobel Foundation · Public domain

装置は驚くほど簡素だった。望遠鏡と、フィルターと、水銀灯と、小さな分光器。費用はわずかだったとよく語られる。同じ1928年、モスクワでもソ連の物理学者たちが水晶の中で同じ現象を見つけていた。だがラマンはいち早く、多くの液体で系統立てて示し、世界に発表した。この現象は「ラマン効果」と名づけられた。

1930年、ラマンはノーベル物理学賞を受けた(ノーベル賞の始まり)。アジアの人として初めての、科学の分野でのノーベル賞である。アジアで最初のノーベル賞は、1913年にベンガルの詩人ラビンドラナート・タゴールが受けた文学賞だった。ラマンは受賞を確信していて、発表を待たずにストックホルム行きの船の切符を手配していたという。授賞式のあとの宴で、自分の国がイギリスの支配下にあることを思って涙を流した、とのちに語っている。共同で実験したクリシュナンが受賞者に加わらなかったことには、当時から疑問の声もある。

ラマンはその後、バンガロールのインド理科大学院の所長を務め、晩年には自らの研究所を開いて、1970年に亡くなるまで研究を続けた。インド人の手で、インドの研究所で、世界の第一線の科学ができる。ラマンの発見は、独立を求めていた時代のインドの人々に大きな誇りを与えた。同じころイギリスで認められた数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンとともに、インドの近代科学の象徴になっている。

ラマン効果は、発見から長いあいだ、強い光源がないために使いにくい技術だった。1960年代にレーザーが現れると、状況は一変した。いまでは薬の成分の検査、絵画の顔料の分析、宝石の鑑定、病気の診断にまで使われ、火星を走る探査車にもラマン分光の装置が積まれている。インドでは1987年から、2月28日が「国民科学の日」とされている。

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