ケプラーの法則

概要
惑星の軌道は円ではなく楕円だった。円でなければならないという2000年の前提が、ティコ・ブラーエの観測記録に合わないという理由だけで崩れる。
場所
50.08°N 14.44°E · チェコ
関わった人(1)
ヨハネス・ケプラーAD1571年12月27日–AD1630年11月15日 · 発見本文
古代ギリシアから17世紀の初めまで、天文学には動かせない前提が一つあった。天体は、完全な図形である円の上を、一定の速さで回る。『アルマゲスト』のプトレマイオスも、地球ではなく太陽を中心に置いたコペルニクスも、この前提は守った。コペルニクスの体系(『天球の回転について』)は、観測に合わせるために、結局いくつもの小さな円を組み合わせなければならなかった。
ヨハネス・ケプラーは1571年、ドイツ南西部の貧しい家に生まれた。テュービンゲン大学で、師からコペルニクスの説を教わり、強く引きつけられる。25歳のときに出した最初の本では、惑星の軌道の間隔は、五つの正多面体を入れ子にした形で神が定めたのだと論じた。数と図形の調和のなかに神の設計を読み取ろうとする人で、その情熱は生涯変わらなかった。ただ、自分の説を確かめるには、もっと正確な観測が要った。
その観測を持っていたのが、デンマークの貴族ティコ・ブラーエだった。ティコの新星の観測で名を上げ、王から島を与えられて天文台を建て、望遠鏡の無い時代に、肉眼での観測を極限まで詰めた。巨大な目盛りの器具を作り、同じ星を何度も測り、器具の狂いまで計算に入れる。角度の誤差は1〜2分角ほどとされ、それまでの観測の10倍近い精度だった。そのティコが、王の死後にデンマークを離れ、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に招かれてプラハにいた。

1600年、宗教の対立でオーストリアのグラーツを追われたケプラーは、プラハ郊外のティコのもとへ行く。二人の仲は良くなかった。ティコは自分の観測記録を、少しずつしか見せなかった。ケプラーに任されたのは、最も扱いにくい火星の軌道だった。翌1601年、ティコは急死する。ケプラーはその後を継いで皇帝付きの数学官となり、遺族と争いながらも、20年分を超える観測記録を手元に置くことになった。
火星との格闘が始まった。初めは8日で片づけると豪語したが、実際には何年もかかっている。円の軌道で、中心をずらし、速さの基準点をずらし、あらゆる工夫を重ねた。そうしてできた軌道は、ほとんどの観測に合った。ただ、いくつかの点で、8分角の食い違いがどうしても消えなかった。満月の見かけの幅の4分の1ほどにあたる。

ほかの誰でも、その程度は測定の誤差として捨てただろう。だがケプラーは、ティコの観測がそこまで狂うことはないと知っていた。著書のなかで彼は、神は私たちに、ティコという最も勤勉な観測者を与えてくださった、だからこの8分を無視することは許されない、と書き、この8分だけが天文学全体を作り直す道を開いた、と続けている。
先に見つかったのは、いまの第二法則だった。惑星は太陽に近いところでは速く、遠いところではゆっくり動く。太陽と惑星を結ぶ線が、同じ時間に同じ面積を掃いていく。一定の速さで回るという前提が、まず崩れた。それから何年もかかって、ついに円そのものを捨てた。卵形をいくつも試したあと、楕円を当てはめると、観測とぴたりと合った。太陽は楕円の中心ではなく、二つある焦点の一つにある。
1609年、ケプラーはこの二つの法則を『新天文学』として出版した。この本の新しさは、法則そのものだけではない。彼は惑星がなぜそう動くのかを問い、太陽から何らかの力が出て惑星を動かしていると考えた。当時知られ始めた磁気の研究にならって、その力を思い描いている。天体の動きを、形の問題ではなく力の問題として考えた最初の天文書だった。
10年後の1619年、『宇宙の調和』で第三法則を発表した。惑星の公転周期の2乗は、太陽からの平均距離の3乗に比例する。発見の日付まで本に書き残し、喜びを隠していない。彼にとってこれは、神が宇宙に込めた音楽の調和の発見だった。
その生活は楽ではなかった。皇帝からの俸給は滞りがちで、彼は占星術のホロスコープや暦を書いて生計の足しにした。グラーツで出した暦では、厳しい寒さとトルコの侵攻を言い当てて評判になっている。本人は占星術の多くを迷信と見ながら、天体が人に何らかの影響を与えることは信じていた。妻と子を病で失い、晩年には母親が魔女として告発され、彼は何年もかけて裁判で弁護し、母を釈放させている。
1630年、ケプラーは俸給の取り立てに向かう旅の途中、レーゲンスブルクで病に倒れて死んだ。同時代のガリレオ・ガリレイは、楕円の軌道を受け入れなかった。ケプラーの法則の意味が完全に明らかになるのは半世紀以上あと、アイザック・ニュートンが『プリンキピア』で、三つの法則がすべて一つの引力から導けることを示したときだった。