人物

アル=ビールーニー

al-Biruni
AD973年 – AD1048年(享年75・推定)
ガズナ朝重要度 4

概要

遠征に随行してインドに滞在し、サンスクリットを学んで『インド誌』を書いた。相手の言い分をその言葉で読んでから書くという構えが、当時としては際立っている。

関わったできごと(1)

『インド誌』AD1030年 · 著者

本文

アブー・ライハーン・アル=ビールーニーは973年、アム川の下流、アラル海の南に広がるオアシスの国ホラズムに生まれた。ビールーニーとは、郊外の人、という意味で、都の外の地区で生まれたことから付いた呼び名とされる。母語はペルシア語に近いホラズムの言葉で、学問はアラビア語で学んだ。ホラズムの王家に連なる数学者に才能を見いだされ、若くして天文学と数学を修めた。9世紀にバグダードで代数学の書を著したフワーリズミーも、名前のとおりホラズムの出身である。

ビールーニーによって描かれた月の満ち欠け(月相)における大地から見た太陽光によって生じる光っている部分と影の部分との対応関係を示した図。右のやや大きめの円が太陽。左の大円の周囲に配された小円は地球を公転する月のそれぞれ位置を示し、赤い直線が陽光などの光線を表す。『占星術教程の書』(ペルシア語版)より
ビールーニーによって描かれた月の満ち欠け(月相)における大地から見た太陽光によって生じる光っている部分と影の部分との対応関係を示した図。右のやや大きめの円が太陽。左の大円の周囲に配された小円は地球を公転する月のそれぞれ位置を示し、赤い直線が陽光などの光線を表す。『占星術教程の書』(ペルシア語版)よりWikimedia Commons Al-Biruni · Public domain

10世紀の末、ホラズムでは王家の交代をめぐる争いが起き、若いビールーニーは国を離れて各地を転々とした。カスピ海の南岸、ジュルジャーンの宮廷に身を寄せていたころ、彼は『古代諸民族の年代記』を書いた。ペルシア人、ギリシア人、ユダヤ人、キリスト教徒、ゾロアスター教徒など、さまざまな民族がどのような暦を使い、どんな祭りを祝ってきたかを、それぞれの言い伝えに即して集めた書物である。

このころ、ビールーニーは、まだ十代の終わりだったイブン・スィーナーと、手紙で論争している。ビールーニーはアリストテレスの自然学について、天が重さを持たないというのは本当か、真空は本当にありえないのか、天体の軌道は円でなく楕円である可能性はないのか、といった問いを次々に送った。イブン・スィーナーはアリストテレスを擁護し、二人の議論はかみ合わないまま、言葉が次第にとげとげしくなっていった。手紙のやり取りは今も残っている。

アル=ビールーニーの肖像
アル=ビールーニーの肖像Wikimedia Commons The original uploader was Romanm at Slovenian Wikipedia . · Public domain

やがてホラズムに戻ったビールーニーは宮廷に仕えたが、1017年、ホラズムはアフガニスタンのガズナを都とするマフムード・ガズナウィーに征服された。ビールーニーは、ほかの学者たちとともにガズナへ連れて行かれた。捕虜に近い身の上だったと考えられている。そしてマフムードが北インドへ遠征を繰り返すなかで、彼はその宮廷に属する学者として、インド北西部、いまのパキスタンのパンジャーブ地方に長く滞在することになった。

征服者の側の一員でありながら、ビールーニーはインドの学問に深い関心を寄せた。サンスクリットを学び、インドの学者たちと議論し、天文学や数学、哲学の書物を読んだ。ヨーガの古典をアラビア語に訳し、逆にユークリッドの幾何学などをサンスクリットに移す仕事もしたと伝えられる。彼は、インドの学者たちが、自分たちの国のほかに国はなく、自分たちの学問のほかに学問はないと思い込み、知識を外の者に教えたがらないことに、何度も悩まされたと書いている。

『インド誌』に関わる図版:Alberunis India
『インド誌』Wikimedia Commons en:Carl Edward Sachau (1845–1930) (text) Anonymous Unknown author (drawing) · Public domain

1030年ごろ、ビールーニーは『インド誌』と呼ばれる大著を書き上げた。インドの宗教、哲学、文学、天文学、暦、地理、法、風俗をまとめた書物である。その書き出しで、彼は自分の方法を説明している。これは論争のための書物ではない、ヒンドゥーの人々が自分で言っていることを、彼らの言葉のとおりに示すのだ、と。実際に彼は、インドの宇宙論や輪廻の考えをそのまま紹介し、ギリシアの哲学やイスラームの神秘主義の考えと比べたうえで、自分はここには同意しない、と分けて書いている。一方で、マフムードの遠征がインドの繁栄を打ち砕き、人々を塵のように散らした、と書くことも、彼はためらわなかった(ソムナート寺院の略奪)。

天文学者、地理学者としても、ビールーニーの仕事は際立っていた。パンジャーブの丘の上の砦で、彼は地球の大きさを測った。まず麓の平地から山の高さを測り、次に山の頂上から見た地平線が、水平からどれだけ下に見えるかを測る。この二つの値から、三角法で地球の半径を割り出したのである。結果は、現代の値との差が1パーセントほどにとどまったとされる。エラトステネスが井戸と影で測った方法とは違う、一つの場所だけで測れるやり方だった。

ガズナに戻ったあと、彼はマフムードの子マスウードに天文学の大全を献じた。地球が自分で回っているのか、天が回っているのかは、天文学の計算からは決められない、と論じたことも知られている。宝石や鉱物の重さと体積を量って比べた書物、薬になる物の書物も残した。生涯の著作は百数十にのぼったと、彼自身が晩年に書いた目録が伝えている。

ビールーニーは1048年ごろ、ガズナで亡くなったとされる。死の床で、見舞いに来た法学者に、相続の法の細かな問題を尋ねたという話が伝わっている。死にゆく者がそんなことを知ってどうするのかと問われ、知らずに死ぬより知って死ぬほうがよい、と答えたという。

その名は、長くイスラーム世界の外ではあまり知られなかった。『インド誌』が19世紀にヨーロッパの学者によって校訂され、英語に訳されると、その公平さと緻密さが驚きをもって迎えられた。異なる文化を、まずその文化自身の言葉で理解しようとする構えは、千年前の書物の中ですでに貫かれていた。

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