関孝和
概要
和算を高い水準に押し上げた。行列式にあたるものを、ライプニッツとほぼ同じ頃に、互いを知らないまま書いている。
関わったできごと(2)
『発微算法』AD1674年 · 著者関孝和と和算AD1683年 · 編み出した本文
関孝和の生年は分かっていない。1642年ごろとする説が有力だが、1637年ごろとする説もある。生まれた場所も、江戸とも上野国の藤岡ともいう。父は内山永明という武士で、孝和は関家の養子となって家を継いだ。跡を継いだ養子がのちに罪を得て家が絶えたこともあり、本人の暮らしぶりを伝える記録は乏しい。分かっているのは、甲府藩主の徳川綱重とその子綱豊に仕え、藩の財政を監査する勘定吟味役などを務めたことである。1704年、綱豊が5代将軍徳川綱吉の跡継ぎに迎えられて江戸城に入ると、孝和も幕府の家臣となった。綱豊はのちの6代将軍家宣である。

関孝和が生まれる少し前、日本では数学の本がよく売れていた。1627年に出た吉田光由の『塵劫記』(塵劫記)は、そろばんの使い方から利息の計算、面積や体積の求め方までを絵入りで説き、江戸時代を通じて読まれた。その版の一つで、吉田は答えを付けない問題を巻末に載せ、読者に解いてみよと挑んだ。これが「遺題」の始まりで、解いた者がまた新しい遺題を出す、という競い合いが続いた。和算はこうして、実用の計算から、難問を解く知的な遊びと研究へと育っていった。
当時の和算は、中国から伝わった「天元術」を使っていた。算木という棒を盤の上に並べて、一つの未知数の方程式を解く方法である。未知数が二つ以上ある問題は、うまく扱えなかった。1671年、沢口一之が『古今算法記』を出し、天元術では解けない15の遺題を載せた。関孝和は1674年、『発微算法』でその15問すべてに答えを示した。本人が生前に刊行した、ただ一冊の数学書である。

その解き方の新しさは、算木の盤を使わず、紙の上に文字と記号で式を書いたことにあった。未知数がいくつあっても、それぞれを記号で表し、式どうしを組み合わせて一つずつ消していき、最後に一つの未知数の方程式にする。のちに「点竄術」と呼ばれる筆算の代数である。ただ『発微算法』は答えの式だけを示して途中の計算を省いたため、本当に解けているのかと疑う者もいた。のちに弟子の建部賢弘が詳しい解説書を出して、疑いを晴らしている。
1683年の写本『解伏題之法』では、連立方程式から未知数を消去する一般的な手順を論じ、そこで今日の行列式にあたるものを使っている。ヨーロッパでは、ゴットフリート・ライプニッツが1693年の手紙で同じ考えを書いたのが最初とされる。二人はほぼ同じころ、互いを知らないまま同じところへたどり着いた。ただし関の行列式の展開には誤りが含まれていたことも分かっている。
死後の1712年に弟子たちが刊行した『括要算法』では、整数のべき乗の和を求める公式を扱い、そこに現れる係数として、今日ベルヌーイ数と呼ばれる数を求めている。スイスのヤコブ・ベルヌーイの同じ成果が刊行されたのは翌1713年で、これも本人の死後だった。同じ本には、円に内接する正多角形の辺を倍々に増やし、得られた値の列を巧みに外挿して、円周率を小数点以下10桁あまりまで正しく求める計算も載っている。
関孝和の関心は暦にも及んだ。中国の元の時代に郭守敬らが作った授時暦を研究した著作が残っている。日本ではまだ、中国の古い暦を800年あまりも使い続けており、その誤差が問題になっていた。数学は、天文と暦を正しく計算するための道具でもあった。
生前の関孝和は、研究の多くを出版せず、写本として弟子たちに伝えた。弟子の建部賢弘と兄の賢明とともに、和算の知識を集大成する大著『大成算経』の編纂にも取り組んでいる。1708年12月、関孝和は江戸で死んだ。
その学統は「関流」と呼ばれ、江戸時代の和算の最大の流派となった。関流では、学ぶ段階に応じて免許を与える、茶道や武芸のような家元の制度がとられ、秘伝として外に出さない知識もあった。それが和算を全国の武士や商人、農民にまで広げた一方で、成果を公に批判し合う場を狭めた面もある。後世の人々は関孝和を「算聖」とたたえた。和算の研究は明治の初めまで続いたが、学校で西洋の数学を教えることが決まると、急速に姿を消した(関孝和と和算)。外の世界とはつながらなかった。同じ時期にヨーロッパで起きていたことを知らず、向こうもこちらを知らなかった。