概要
京都生まれ。東京帝国大学で化学。1899年からライプツィヒでオストヴァルトに学び、ロンドンでは夏目漱石と同宿した(漱石が神経衰弱の中で彼と議論したことが日記にある)。帰国後、湯豆腐の昆布だしの味が四つの基本味のどれでもないことに気づき、1908年、グルタミン酸ナトリウムを単離して「うま味」と名づけた。特許を鈴木三郎助に託し、味の素が生まれた。物理化学の教授としての本業は、界面と溶液の研究である。
所属
日本関わったできごと(1)
うま味の発見AD1908年 · 見つけた本文
1864年10月8日(元治元年)、京都生まれ。父・池田春苗は薩摩藩の学者で、後に大蔵省と文部省に勤めた。
一家は東京へ移り、経済的には恵まれなかった。彼は大学予備門を病気で中退し、独学の期間を経て、1885年に東京帝国大学理科大学化学科へ入った。1889年卒業。
高等師範学校の教師を経て、1896年、帝国大学助教授。
**ドイツ留学**(1899〜1901)。
ライプツィヒ大学の**ヴィルヘルム・オストヴァルト**の研究室。物理化学の創始者の一人(1909年ノーベル化学賞)。触媒、反応速度、電離平衡。
池田が持ち帰ったのは、「**現象を、物理と化学の量として測る**」という態度である。
**ロンドン**。
帰国の途中、ロンドンに立ち寄り、2か月ほど滞在した。
そこで、同じ下宿に**夏目漱石**がいた。漱石は文部省の留学生として英文学を学びに来て、深い神経衰弱に陥っていた。誰とも会わず、下宿にこもっていた。
池田とは、話した。
漱石の日記と書簡に、彼の名が繰り返し出てくる。「池田菊苗氏来る。……夜十二時頃迄話す」。
漱石は後に『文学論』の序で書いている。
「余は下宿に立て籠りたり。……この時余は池田菊苗氏と共に下宿せり。氏は理学者なり。而して余の知る限りに於て有数の学者なり。余は氏と交ることの日尚浅きに、氏より受けたる直接間接の感化は決して少しとせず」。
そして——「余は此時始めて文学とは何ぞやといふ問題を解釈せんと試みたり」。
漱石が、文学を「Fに伴うf」という記号で分析しようとした、あの奇妙で野心的な試みは、この理学者との議論から出ている。
**帰国、そして問い**。
1901年、東京帝国大学教授。
彼の本業は、物理化学である。溶液、界面、触媒、そして日本の水の分析。
しかし、彼はもう一つ、実際的な関心を持っていた。日本人の栄養状態を改善すること。彼は書いている。
「**日本人の体格が欧米人に劣るのは、栄養の不足による。安価で、栄養のある食物を美味しく食べられるようにすれば、国民の体位は向上する**」。
そして、その手段として、**調味料**に目を向けた。
**1907年頃**。
食卓で、湯豆腐の昆布だしの味に気づいた(あるいは、妻の作った吸い物であった、とも伝わる)。
甘・酸・塩・苦のどれでもない。しかし、確かに味がある。そして、それは西洋のスープにも、トマトにも、チーズにも、共通してある。
**1908年**。
38キログラムの乾燥昆布を煮出し、濃縮し、他の成分を分離して、**約30グラム**のグルタミン酸の結晶を得た。
そのナトリウム塩(MSG)が、水によく溶け、その味を最も強く出す。
彼は、その味を「**うま味**」と名づけた。日本語の「旨い」から。
1908年7月25日、特許出願(第14805号「調味料製造法」)。
1909年、『東京化学会誌』に「新調味料に就いて」。
**事業化**。
彼は、自分で商売をするつもりはなかった。
知人を介して、逗子で沃素の製造をしていた**鈴木三郎助**を紹介された。三郎助は、この発明に賭けた。
1909年5月20日、「**味の素**」発売。
小麦のグルテンを塩酸で加水分解してグルタミン酸を得る方法(後に、大豆、そして1956年から**発酵法**へ)。
売れなかった。高価だった(当時、30gで50銭。米が10kgで1円台の時代)。
三郎助は、料亭、蕎麦屋、料理学校を回り、実演した。新聞広告を打った。銀座に電飾の広告塔を建てた。
数年かけて、売れ始めた。
**その後**。
池田は、ロイヤルティを受け取ったが、それを研究と、後進の育成に使った。
理化学研究所の設立(1917年)に関わった。
彼の弟子から、**小玉新太郎**(1913年、鰹節からイノシン酸)が出た。
物理化学者としての業績——溶液論、触媒、界面現象。彼の名は、うま味だけで残っているわけではない。
1923年、東京帝国大学を退官。
**1936年5月3日**、死去。71歳。
**評価の遅れ**。
「うま味」が国際的に第五の基本味として認められるのは、彼の死から**64年後**、2000年代である。1909年の論文が英訳されたのは、**2002年**。
いま、umami は、世界中の料理人が使う語になっている。