アントワーヌ・ラヴォアジエ
概要
燃焼を酸素との結合として説明し、化学に秤を持ち込んだ。徴税請負人でもあったため、革命裁判所で処刑される。
関わったできごと(2)
燃焼と酸素AD1777年 · 示したラヴォワジエ『化学原論』AD1789年 · 書いた本文
1743年8月26日、パリの裕福な法律家の家に生まれた。5歳で母を亡くし、母方の祖母と叔母に育てられた。名門の学校で古典と数学を学び、父の望みで法律の学位を取ったが、心を惹かれたのは自然科学だった。化学の公開講義に通い、地質の調査旅行に加わり、パリの街灯の改良案を出して学会から賞を受けた。

1768年、25歳で王立科学アカデミーの会員になった。同じ年、徴税請負人の組合に出資した。当時のフランスでは、国が間接税の取り立てを民間の請負人たちにまとめて任せていた。請負人は前もって決まった額を国庫に納め、それを上回って集めた分を自分たちの利益にした。民衆に最も憎まれた職業の一つである。ラヴォアジエはこの事業で大きな収入を得て、それを当時最高の実験器具につぎ込んだ。とりわけ、ごくわずかな重さの違いを量れる精密な天秤を作らせた。
1771年、28歳で、同じ請負人組合の幹部の娘マリー=アンヌと結婚した。花嫁は13歳だった。マリー=アンヌはやがて夫の最良の協力者になった。英語を学んで、イギリスの化学者たちの論文をフランス語に訳し、画家のダヴィッドに絵を習って、夫の実験装置を精密な版画に描いた。実験に立ち会って記録を取る彼女の姿は、夫自身のスケッチにも残っている。ダヴィッドが描いた夫妻の肖像画は、いまニューヨークの美術館にある。

当時の化学では、燃えるものには「フロギストン(燃素)」という成分が含まれ、燃えるとそれが外へ出ていく、と考えられていた。ところが、リンや硫黄、金属を燃やすと、重さはかえって増える。ラヴォアジエはこの重さの増加にこだわった。密閉した容器の中で物を燃やし、燃やす前と後で全体の重さを量ると、重さは変わらない。燃えた物が増えたぶん、容器の中の空気が減っている。燃えるとは、何かが出ていくことではなく、空気の中のある成分と結びつくことだ、と彼は考えた(燃焼と酸素)。
その成分を初めて取り出したのは、イギリスのプリーストリーとスウェーデンのシェーレだった。1774年にパリを訪れたプリーストリーは、ラヴォアジエに自分の発見を語っている。だがプリーストリーは、それを「フロギストンを抜かれた空気」と考え、古い説を手放さなかった。その気体の正しい意味を説明したのはラヴォアジエだった。彼はこれを「酸を作るもの」という意味で酸素と名付けた。すべての酸に酸素が含まれると考えたためで、この点は誤りだったが、名前はそのまま残った。1783年には、水が別の気体と酸素から出来ていることを示し、その気体を「水を作るもの」、水素と名付けた。古代から元素の一つとされてきた水が、化合物だったのである。

1787年には仲間の化学者たちと、物質の名前を、何から出来ているかが分かるように付け直す方式を発表した。それまで錬金術の名残で「ヴィーナスの硫酸塩」などと呼ばれていたものが、いまの「硫酸銅」のような名で呼ばれるようになる。1789年に出した『化学原論』では、それ以上分けられない物質を元素とし、33の元素を表にした。中には光や熱素も含まれていたが、化学を測定と計算の学問に変えたこの本は、近代化学の出発点とされる。化学反応の前後で物質の総量は変わらないという質量保存の考えも、この本ではっきり述べられている。
科学者としての仕事は化学の外にも広がった。国の火薬局の責任者として、火薬の原料の硝石の生産を立て直した。氷を使った熱量計で、モルモットの呼吸が一種のゆるやかな燃焼であることを示した。革命が始まると、長さや重さの単位を作り直す委員会に加わった(メートル法の制定)。
だが、徴税請負人という肩書きが彼を追い詰めた。ラヴォアジエの提案で、パリの周りには、税を取り立てずに物資が持ち込まれるのを防ぐための壁が築かれていた。この壁は市民の怒りを買った。さらに、かつてアカデミーで論文を退けられた革命家のマラーが、新聞で彼を激しく攻撃した。フランス革命が過激になると、1793年にアカデミーは廃止され、11月には徴税請負人たちが一斉に逮捕された。ラヴォアジエも自ら出頭した。

恐怖政治のさなかの1794年5月8日、ラヴォアジエは義父を含む28人の徴税請負人とともに革命裁判所で裁かれ、その日の午後のうちに断頭台に送られた。50歳だった。裁判長が「共和国に学者は要らない」と言って助命の願いを退けたという話は有名だが、後世の作り話と考えられている。数学者のラグランジュは、あの頭を切り落とすのは一瞬だったが、同じ頭が現れるには100年かかっても足りないだろう、と嘆いたと伝えられる。
処刑から1年半ほどして、ラヴォアジエの名誉は回復され、没収された遺品は妻のもとに返された。マリー=アンヌは夫の遺稿をまとめて出版し、のちに科学者のランフォード伯と再婚したが、長くは続かなかった。彼女は生涯、ラヴォアジエの名を自分の名に残し続けた。