計算尺
概要
対数は掛け算を足し算に変える。ガンターは対数の目盛を刻んだ物差しを作り、コンパスで長さを測って足した。オートレッドは、同じ目盛の尺を二本、滑らせて重ねればよいと考えた。掛け算が、目盛を合わせる動作になる。有効数字は三桁ほどしか読めない。しかし、桁を間違えなければ、それで足りる場面が多い。以後三百五十年、技師と航海士と学生がこれを腰に下げた。アポロ計画の技術者も使っている。電卓が現れて、数年で消えた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ウィリアム・オートレッドAD1574年3月5日–AD1660年6月30日 · 考案本文
計算尺を生んだのは、対数である。1614年、スコットランドのジョン・ネイピア(ジョン・ネイピア)は、掛け算を足し算に置き換える対数という仕組みを発表した(ネイピアの対数)。二つの数を掛けた答えの対数は、それぞれの対数を足したものに等しい。だから、大きな数の掛け算は、表で対数を引き、足し算をして、また表で元に戻せば済む。ロンドンのヘンリー・ブリッグスは、ネイピアと話し合って、10を底とする使いやすい常用対数を考え、その表を手計算で作り始めた。14桁もの精度で、1から2万までと、9万から10万までの表を仕上げ、あいだの部分はのちにオランダのアドリアン・フラックが埋めた。天文学者や航海士にとって、これは大きな救いだった。のちにラプラスは、対数は手間を減らすことで天文学者の寿命を倍にした、という趣旨のことを述べている。
対数の表を引く手間を、さらに省いた人がいる。1620年、ロンドンのグレシャム・カレッジで天文学を教えていたエドマンド・ガンターは、物差しに対数の目盛を刻んだ。1の位置から数aまでの長さは、aの対数に比例する。コンパスの両足で1からaまでの長さを測り、その長さを数bの位置から先へ継ぎ足すと、コンパスの先がa×bの目盛を指す。表を引かずに、長さを足すことで掛け算ができた。
これをもっと簡単にしたのが、英国国教会の教区司祭で数学者のウィリアム・オートレッド(ウィリアム・オートレッド、1574〜1660年)である。1620年代の初め、彼は、コンパスを使わなくても、同じ対数の目盛を刻んだ物差しを二本並べ、片方を滑らせればよいと気づいた。片方の1の目盛をもう片方のaに合わせ、bの目盛の向かいを読めば、そこにa×bがある。掛け算が、目盛を合わせて読む一つの動作になった。彼は二枚の円盤を重ねて回す円形の計算尺も考えた。円には端が無いので、目盛がはみ出す心配がない。
オートレッドはこの発明をすぐには公にしなかった。1630年、弟子のリチャード・デラメインが、円形の計算尺についての本を先に出した。オートレッドは自分の発明を盗まれたと主張し、デラメインは自分で考えたものだと言い返して、激しい争いになった。決着はつかないままで、デラメインはのちに貧しいうちに亡くなった。オートレッドが自分の計算尺についての説明を出したのは、1632年のことである。

計算尺は、固定された本体と、そのあいだを滑る滑尺、そして目盛を読むための細い線を引いた透明な窓、カーソルからなる。離れた目盛を同じ位置で読むためのカーソルは、ずっと後になって広く使われるようになった。目盛の種類も増えていった。掛け算と割り算の基本の目盛のほか、二乗や三乗、三角関数の正弦や正接、対数、さらに累乗を計算する目盛まで、高級な計算尺には20本を超える目盛が刻まれていた。
計算尺には、はっきりした限界がある。読み取れるのは、せいぜい3桁ほどである。長い計算尺でも4桁には届かない。そして、桁が分からない。答えの目盛が2.5を指していても、それが2.5なのか250なのか0.025なのかは、計算尺は教えてくれない。使う人が頭の中で概算をして、だいたいこのくらいのはずだと見当をつけておく必要がある。これが技術者の数の感覚を鍛えた、とよく言われる。計算尺に慣れた世代は、電卓の世代を、桁を間違えても気づかないと評することがあった。足し算と引き算もできない。対数は、掛け算のための道具だからである。

それでも、3桁で足りる場面は多かった。工学の計算では、材料の強さそのものに、それ以上の精度が無いことが多い。そのうえで安全のために2倍や3倍の余裕を見込むのだから、4桁目にはあまり意味がない。
19世紀の半ば、フランスの砲兵将校アメデ・マンハイムが、目盛の並べ方とカーソルを備えた標準の形を考え、これが世界に広まった。アメリカのケフェル・アンド・エッサー、ドイツのファーバー・カステルといった会社が計算尺を量産し、日本でもヘンミ計算尺が名を上げた。ヘンミは竹を材料に使った。竹は湿気や温度による伸び縮みが小さく、滑りもよい。日本の計算尺が世界で高く評価された理由の一つである。

橋も、ダムも、船も、飛行機も、計算尺で設計された。20世紀の巨大な建築や土木の工事の多くも、その計算は計算尺に頼っていた。アメリカの月への計画でも、技術者たちは計算尺を手放さなかった。1969年のアポロ11号の月面着陸で月に降りたバズ・オルドリンは、計算尺を宇宙船に持ち込んでいる。それはのちに競売にかけられ、高値で落札された。
終わりは突然だった。1972年、アメリカのヒューレット・パッカード社が、ポケットに入る科学計算用の電卓を売り出した。値段は395ドルと高かったが、3桁どころか10桁の答えが出て、三角関数も対数もボタン一つで計算できた。電卓の値段はみるみる下がり、計算尺は数年のうちに姿を消した。ケフェル・アンド・エッサーは1970年代の半ばに計算尺の生産をやめ、最後に作った一本をスミソニアン博物館に贈ったと伝えられる。ヘンミも、計算尺の生産から実質的に手を引いた。350年使われた道具が、わずか数年で消えたのである。

いまも計算尺が生き残っている場所がある。飛行機の操縦士が使う飛行用の計算盤は、円形の計算尺そのものである。電池が要らず、壊れにくい。操縦士の試験では、いまもこの使い方が問われることがある。古い計算尺は、収集の対象として愛好家の手で大切にされている。対数という一つの考えを、手で滑らせる物差しに変えた発明は、電子の計算機が来るまでの長いあいだ、技術者の腰にぶら下がり続けた。