ネーターの定理

概要
対称性があるところには必ず保存則がある。エネルギー保存も運動量保存も、この一つの定理の帰結として出てくる。
場所
51.54°N 9.92°E · ドイツ・ニーダーザクセン州
関わった人(1)
エミー・ネーターAD1882年3月23日–AD1935年4月14日 · 証明本文
1918年、ドイツのゲッティンゲン大学で、数学者エミー・ネーターが一本の論文を発表した。対称性があるところには、必ず保存則がある。物理学の土台を一つの原理で言い表したこの結果は、いまネーターの定理と呼ばれている。
ことの始まりは、一般相対性理論だった。1915年、アインシュタインは重力の新しい理論を完成させた。ゲッティンゲンの大数学者ヒルベルトも、同じ時期に同じ方程式に取り組んでいた。ところが、この理論では、物理学の基本中の基本、エネルギーの保存がどう成り立つのかがはっきりしなかった。ヒルベルトと同僚のクラインは、この問題を解くために、変換と不変性の数学に通じたネーターを、エアランゲンからゲッティンゲンへ呼び寄せた。

ネーターは1882年、エアランゲンの数学者の家に生まれた。当時のドイツでは、女性は大学で正式に学ぶことさえ難しく、聴講生として講義を受けたあと、ようやく博士号を取った。その後も、エアランゲンで何年も給料無しで教え、研究を続けていた。
ゲッティンゲンに来ても、女性が大学で教える資格を得ることは認められなかった。ヒルベルトは彼女の資格を求めて教授会と争った。反対する教授たちに、候補者の性別が反対の理由になるとは思わない、ここは大学であって浴場ではない、と言ったという話が伝わっている。結局、ネーターはヒルベルトの名で講義を出し、助手として教えることになった。

ネーターが出した答えは、問われた問題より、はるかに広かった。物理の法則が、ある変換をしても変わらないとき、それを対称性と呼ぶ。たとえば実験を今日しても明日しても同じ結果が出るなら、法則は時間をずらしても変わらない。東京でしてもパリでしても同じなら、場所をずらしても変わらない。どちらを向いてしても同じなら、向きを変えても変わらない。
ネーターは、こうした連続的な対称性の一つひとつに、保存される量が一つずつ必ず対応することを証明した。時間をずらしても変わらないから、エネルギーが保存する。場所をずらしても変わらないから、運動量が保存する。向きを変えても変わらないから、角運動量が保存する。

それまで、エネルギー保存の法則も、運動量保存の法則も、別々に見つけられ、別々に確かめられてきた。それがなぜ成り立つのかは、問われないままだった。ネーターの定理は、それらが空間と時間の性質そのものから出てくることを示した。保存則は、自然がたまたまそうなっているのではなく、法則がどこでもいつでも同じであることの裏返しだった。
論文には、もう一つの結果も含まれていた。一般相対性理論のように、場所ごとに勝手に座標を取り替えても成り立つ理論では、エネルギーの保存は、ふつうの理論とは違った形でしか言えない。これが、ヒルベルトたちが抱えていた疑問への答えになった。アインシュタインは論文を読んで、ヒルベルトへの手紙で、その深い数学的な考え方に感心したと書いている。
論文はその年の7月、ゲッティンゲンの学会でクラインが代わりに発表した。ネーターは学会の会員ではなかったからである。翌1919年、戦争に負けてドイツが共和国になると、ネーターはようやく大学で教える資格を得た。
その後のネーターは、物理ではなく純粋数学の世界で名をなした。数の計算の規則そのものを抽象的に扱う代数学の分野で、新しい考え方を切り開き、多くの弟子を育てた。数学の教科書には、いまも彼女の名を冠した用語が出てくる。
1933年、ナチスが政権を取ると、ユダヤ系だったネーターは大学を追われた。アメリカに渡り、ブリンマー女子大学で教えたが、2年後の1935年、手術のあとに容体が急変して死んだ。53歳だった。アインシュタインは、アメリカの新聞に追悼の手紙を寄せ、女性の高等教育が始まって以来、最も重要な創造的な数学の天才だったと書いた。
ネーターの定理は、20世紀の物理学の中で、ますます重みを増していった。電荷が保存されることも、ある種の対称性から説明される。素粒子の世界を記述する標準理論は、どんな対称性があるかを出発点に組み立てられている。2012年のヒッグス粒子の発見も、その理論の上で予言されたものだった。
物理学者たちは、何か新しい保存則を見つけると、その背後にある対称性を探す。対称性を見つけると、そこから保存される量を導く。ネーターが1918年に示した道筋を、いまも物理学は歩き続けている。