できごと

バベッジの階差機関と解析機関

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AD1837年
重要度 5
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1837年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1837年の版図を描いています(22勢力)。

概要

当時の航海表と対数表は人が計算し、人が写し、誤植だらけだった。バベッジは「これを蒸気で計算できたなら」と言い、多項式を差分だけで求める階差機関を設計した。政府が資金を出し、17000ポンドを使って完成しなかった。彼は途中でより野心的な解析機関に移った。パンチカードで命令を与え、演算部(ミル)と記憶部(ストア)を分け、条件分岐と繰り返しを持つ。汎用計算機の設計である。一台も作られなかった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(2)

チャールズ・バベッジAD1791年12月26日–AD1871年10月18日 · 設計したエイダ・ラブレスAD1815年12月10日–AD1852年11月27日 · 注釈を書いた

本文

19世紀の初め、航海も天文学も工学も、数表に頼っていた。対数の表、三角関数の表、星の位置を並べた航海暦、利息の表。17世紀のネイピアの対数以来、計算の手間を省くために数表は欠かせないものになっていた。だが、それらの表は人が計算し、人が書き写し、人が活字に組んだものだった。どの段階でも誤りが入り込む。航海暦の数字の誤りが、船の位置の読み違いにつながるおそれもあった。

1821年のある日、ロンドンで、数学者のチャールズ・バベッジと天文学者のジョン・ハーシェルは、天文学会のために計算させた表を二人で照らし合わせていた。誤りが次々と見つかった。うんざりしたバベッジは、これらの計算が蒸気でできたらいいのに、と叫んだと伝えられる。工場では蒸気機関が糸を紡ぎ、布を織っていた。計算も、機械にやらせればよいのではないか。

チャールズ・バベッジ(1860年)
チャールズ・バベッジWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

バベッジが目を付けたのは、差(階差)を使う計算法だった。たとえば、1、4、9、16、25と2乗の数を並べ、隣どうしの差を取ると、3、5、7、9となる。その差をもう一度取ると、2、2、2と一定になる。逆にたどれば、足し算を繰り返すだけで次の2乗の数が出てくる。掛け算も割り算も要らない。多項式で表せる関数は、どれもこのやり方で計算できる。対数や三角関数も、範囲を細かく区切れば多項式で十分正確に近づけられる。歯車で数を覚えさせ、足し算を機械で繰り返し、しかも結果をそのまま印刷させれば、書き写しや組版の誤りも防げる。これが階差機関の考えだった。

1823年、イギリス政府はこの機械の製作に1500ポンドを出した。航海暦の誤りを減らせるなら、海軍の役に立つ。だが、仕事は思うように進まなかった。数千の歯車を、必要な精度でそろえて作ることが、当時の工作の技術では難しかった。バベッジと主任の職人ジョゼフ・クレメントは、そのために工作機械や部品の作り方そのものを改良していった。その試みは、イギリスの機械工業の技術を押し上げることにもなった。

エイダ・ラブレス
エイダ・ラブレスWikimedia Commons Margaret Sarah Carpenter · Public domain

1833年、費用と工房の権利をめぐって、バベッジとクレメントは決裂した。クレメントは道具と図面を手元に置いたまま仕事を止め、製作はそこで止まった。完成していたのは、全体の7分の1ほどにあたる一部分だけだった。その部分は、いまもロンドンの科学博物館にあり、正しく動く。政府がそれまでに投じた額は、1万7000ポンドに達していた。当時の蒸気機関車が1台1000ポンドほどだったから、莫大な額である。1842年、首相ロバート・ピールの政府は、計画を打ち切った。

打ち切りを招いたもう一つの理由は、バベッジ自身の心変わりだった。1830年代の半ば、彼はもっと大きな構想に夢中になっていた。階差機関は、決まった種類の計算しかできない。どんな計算でもこなせる機械は作れないか。それが解析機関である。

解析機関の設計には、いまの計算機につながる仕組みが並んでいる。計算を行う部分を、バベッジは粉ひき場にたとえて「ミル」と呼んだ。数を蓄えておく部分は「ストア(倉庫)」と呼び、50桁の数を1000個覚えられるように設計した。機械に何をさせるかは、穴を開けたカードで指示する。これは、カードの穴の並びで模様を指定して自動で布を織る、フランスのジャカールの織機から借りた考えだった。計算の途中の結果に応じて、カードを先へ飛ばしたり、前へ戻って同じ手順を繰り返したりすることもできた。計算する部分と記憶する部分が分かれ、手順を書いたカードで動き、条件によって流れを変える。100年後の電子計算機と、論理の骨組みは同じだった。

この機械の可能性を、バベッジ以上に遠くまで見通した人がいた。詩人バイロンの娘、エイダ・ラブレスである。1843年、彼女はイタリアの技術者が解析機関について書いた論文を英語に訳し、元の論文の倍以上の長さの注釈を付けた(エイダ・ラヴレスの覚え書き)。その中で彼女は、ベルヌーイ数と呼ばれる数を機械に計算させる手順を詳しく書き、さらに、この機械は数だけでなく、記号の規則で表せるものなら、たとえば音楽でも扱えるかもしれない、と述べた。彼女の注釈は、のちに最初のプログラムと呼ばれることになる。

解析機関は、一台も作られなかった。政府はもう金を出さず、バベッジは私財を投じて設計図を描き続けた。その図面は数千枚にのぼる。設計どおりに作れば、蒸気で動く機関車ほどの大きさになったはずである。一方で、バベッジの論文を読んだスウェーデンのシュウツ父子は、規模を小さくした階差機関を1850年代に完成させ、イギリス政府はその一台を買って、生命保険の計算の表を作るのに使った。

バベッジは、才気にあふれていたが、人とうまくやるのが下手だった。政府の役人とも、職人とも、学会とも衝突した。晩年は、街角で手回しオルガンを鳴らす辻音楽師たちを騒音として目の敵にし、取り締まりを求める運動に熱中して、町の人々からからかわれた。1871年に彼が死んだとき、その業績を理解する人はわずかだった。息子のヘンリーは、父の死後、解析機関の計算部分の一部を組み立て、それが動くことを確かめている。

1991年、バベッジの生誕200年に合わせて、ロンドンの科学博物館は、彼が1840年代の末に描いた改良版の階差機関の設計図をもとに、当時の工作の精度の範囲で機械を作り上げた。機械は動き、31桁の数を正しく計算した。2000年には、設計図にあった印刷の仕組みも完成し、これも動いた。設計は正しかったのである。足りなかったのは、金と時間と、人を動かす力だった。

20世紀の半ばに電子計算機を作った人々の多くは、バベッジの仕事を詳しくは知らなかった。彼らは、別の道を通って、同じ考えにたどり着いた。歯車と蒸気で考えられた汎用の計算機は、真空管と電気で実現したのである(計算機で天気を解く)。バベッジの機械は、作られなかったからこそ、時代より100年早かった構想として記憶されている。

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