できごと

ラヴォワジエ『化学原論』

Traité Élémentaire de Chimie
AD1789年
重要度 5
ラヴォワジエ『化学原論』に関わる図版:Lavoisier-7
Lavoisier-7 Wikimedia Commons Lavoisier, Antoine-Laurent de · Public domain

概要

フロギストンはない。燃焼は酸素との結合。質量は保存する。元素表33(光と熱を含む)。新しい命名法(1787年、酸素、水素、窒素、硫酸)。妻マリー=アンヌが実験を記録し、図を描き、英語を訳した。「化学革命」。同じ年、バスティーユ。5年後、徴税請負人として断頭台。「その頭を切るのは一瞬だが、同じ頭は100年かかっても生まれない」(ラグランジュ)。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

アントワーヌ・ラヴォアジエAD1743年8月26日–AD1794年5月8日 · 書いた

本文

18世紀の化学を支配していたのは、「フロギストン」という考え方だった。ドイツの医師ゲオルク・シュタールらが体系化した説で、燃える物は燃素(フロギストン)を含み、燃えるとそれが逃げ出していく、と説明する。木が燃えて灰が残るのも、金属を焼くと粉っぽい「金属灰」(いまで言う酸化物)に変わるのも、フロギストンが抜けたからである。金属灰に炭を加えて熱すると金属に戻るのは、フロギストンをたっぷり含む炭からそれが移るからだ。この説は多くの現象をうまく説明した。ただ一つ、困ったことがあった。金属を焼いてできた灰は、もとの金属より重いのである。何かが出て行ったのに重くなる。フロギストンは負の重さを持つのだ、と苦しい説明をする者もいた。

この矛盾に、天秤を武器に挑んだのが、パリのアントワーヌ・ラヴォアジエである。1743年に裕福な法律家の家に生まれ、法学を修めたのち化学と地質学に打ち込み、25歳で科学アカデミーの会員になった。同じ年、彼は「徴税請負人」の組合に出資した。国に一定額を前払いし、その代わりに塩や煙草などの間接税を取り立てる民間の団体で、莫大な利益を生む一方、民衆からは激しく憎まれていた。ラヴォワジエはその収入で、当時ヨーロッパで最も精密な実験器具をそろえた。1771年には、同僚の徴税請負人の娘、13歳のマリー=アンヌ・ポールズと結婚した。彼女はのちに夫の研究の欠かせない協力者になる。

『化学原論』の図版(実験器具)
『化学原論』の図版(実験器具)Wikimedia Commons Lavoisier, Antoine-Laurent de · Public domain

1772年、ラヴォワジエはリンや硫黄を燃やすと重くなることを確かめ、それが空気の一部と結びつくためだと考えて、封をした覚え書きをアカデミーに預けた。1774年10月、イギリスの化学者ジョゼフ・プリーストリーがパリを訪れ、ラヴォワジエ家の食卓で、赤い水銀灰を熱すると、ろうそくが驚くほど明るく燃え、鼠が長く生きる気体が出てくる、と話した。プリーストリーはそれを、フロギストンを失った「脱フロギストン空気」と呼んだ。スウェーデンのシェーレも、それより前に同じ気体を見つけていたが、発表が遅れていた。

ラヴォワジエはこの気体の意味を、二人とは違う方向に読んだ。それは空気のおよそ5分の1を占める成分で、物が燃えるのも、金属が灰になるのも、生き物が呼吸するのも、この気体と結びつくことなのだ。フロギストンなど、もともと存在しない。彼はこの気体を、酸を生むものという意味で「オキシジェーヌ」(酸素)と名づけた。すべての酸は酸素を含むと考えたからだが、これはのちに誤りと分かる。塩酸には酸素は含まれていない。燃焼の新しい説明が固まっていく過程は燃焼と酸素に詳しい。

『化学原論』の図版(実験器具)
『化学原論』の図版(実験器具)Wikimedia Commons Lavoisier, Antoine-Laurent de · Public domain

1783年、ラヴォワジエは、イギリスのキャヴェンディッシュが「燃える空気」を燃やすと水ができることを見つけたと聞き、数学者ラプラスとともに実験を重ねて、水は元素ではなく、その燃える気体と酸素の化合物だと結論した。燃える気体は、水を生むものという意味で「イドロジェーヌ」(水素)と名づけられた。古代ギリシア以来、四元素の一つとされてきた水が、二つの気体に分けられたのである。1785年には大がかりな公開実験で、水の分解と合成を示してみせた。

新しい理論には、新しい言葉が要った。当時の化学の物質名は、錬金術以来の慣習で、「硫酸油」「アンチモンのバター」「鉛糖」など、色や手触りや発見者の名にもとづくばらばらなものだった。1787年、ラヴォワジエはギトン・ド・モルヴォー、ベルトレ、フルクロワとともに『化学命名法』を出し、物質の名前を、それを作る元素の名を組み合わせて体系的に付ける方法を提案した。硫酸、硫酸塩、酸化鉛といった、いまも使われている名前の付け方は、ここから始まった。

『化学原論』の図版(実験器具)
『化学原論』の図版(実験器具)Wikimedia Commons Lavoisier, Antoine-Laurent de · Public domain

そして1789年、彼はそれまでの仕事を一つの教科書にまとめた。『化学原論』である。全2巻で、序文で彼は、哲学者コンディヤックの言葉を引いて、学問は言語によってしか進歩しない、よく作られた言語はよく作られた分析の方法である、と述べた。第1部は気体の生成と分解、燃焼、酸の生成、発酵などを扱う。発酵を論じたところで、彼は、実験の前と後で物質の量は変わらない、という原則をはっきりと言い表した。化学反応において質量は保存されるという、のちに「質量保存の法則」と呼ばれる原理である。第2部には、彼が「単純な物質」すなわち元素とみなした33の物質の表が載っている。酸素、窒素、水素、硫黄、リン、炭素、そして十数種の金属。さらに、まだ分解できなかった石灰やシリカなどの「土」も含まれ、光と熱(熱素)まで並んでいた。彼は元素を、これ以上分解できないと実験で確かめられた物質、と定義した。将来分解されれば元素ではなくなる、という意味で、それは形而上学ではなく実験にもとづく定義だった。

第3部は実験器具と操作の解説で、13枚の銅版画の図版が付いていた。それを描いたのはマリー=アンヌで、彼女は画家ダヴィッドに絵を学び、夫の実験に立ち会って記録をつけ、英語の文献を訳した。のちの化学者たちは、この本で化学を学び直した。化学がばらばらの経験の寄せ集めから、定量的な近代科学へと生まれ変わったこの変化は、「化学革命」と呼ばれる。

同じ1789年の7月、パリの民衆はバスティーユを襲った(フランス革命)。ラヴォワジエは革命の初期には改革の側に立ち、度量衡の統一の委員会などで働いた。だが徴税請負人であったことが、彼の命取りになる。彼はパリの周りに、密輸を防いで入市税を確実に取るための壁を築くよう提案した人物でもあった。壁はパリを囲んでパリをつぶやかせる、という言葉遊びが流行するほど、それは市民に嫌われた。若いころ燃焼についての論文をアカデミーで退けられたジャン=ポール・マラーは、革命の指導者として新聞でラヴォワジエを繰り返し攻撃した。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

1793年、恐怖政治のもとで科学アカデミーが廃止され、11月には徴税請負人がそろって逮捕された(恐怖政治)。1794年5月8日、28人の徴税請負人が革命裁判所で死刑を言い渡され、その日の夕方、革命広場で処刑された。ラヴォワジエは4番目にギロチンにかけられた。50歳だった。共和国に学者は要らない、と裁判長が言い放ったという話は有名だが、後年の記録に出てくるもので、確かな証拠はない。数学者ラグランジュは、彼の首を落とすには一瞬で足りたが、あれほどの頭脳は100年かかっても生まれないだろう、と嘆いたと伝えられる。

1年半後、ラヴォワジエの名誉は回復された。マリー=アンヌは夫の遺稿をまとめて出版し、のちに熱の研究や貧しい人々のためのスープ(貧しい人のためのスープ)で知られるランフォード伯と再婚したが、まもなく別れ、1836年まで生きた。ラヴォワジエの元素の表は、その後ドルトンの原子論(ドルトンの原子論)を経て、1869年、メンデレーエフの周期表へと受け継がれていく。

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