ハーヴェイの血液循環
概要
心臓は1時間で体重より多い血を送る。肝臓がそれだけ作れるはずがない。だから血は回っている。72頁の本で、1500年のガレノスが終わった。毛細血管は見えず、30年後に顕微鏡で見つかった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ウィリアム・ハーヴェイAD1578年4月1日–AD1657年6月3日 · 医師本文
17世紀のはじめまで、ヨーロッパの医学で血液の働きを説明していたのは、2世紀のローマで活躍したギリシア人医師ガレノスの学説だった(ガレノスの医学)。それによれば、血液は肝臓で、腸から吸収された食べ物をもとに絶えず新しく作られる。作られた血は静脈を通って全身に運ばれ、体の各部で栄養として使い尽くされる。一方、心臓の右側に入った血の一部は、左右を隔てる壁にあるという目に見えない小さな穴をしみ通って左側へ移り、肺から来た「精気」と混ざって、動脈で全身に送られる。血は作られては消費される一方通行の流れであり、毎日新たに作られる。この体系は1400年近く、医学の揺るぎない土台だった。
16世紀になると、ひびが入り始める。解剖学者ヴェサリウス(ヴェサリウス『ファブリカ』)は、人体を自らの手で解剖し、心臓の壁にあるはずの穴がどうしても見つからないと書いた。スペインのセルヴェトゥスやイタリアのコロンボは、心臓の右側から出た血が、壁を抜けるのではなく、肺を回って左側へ戻るという「肺循環」を説いた。13世紀のカイロでは、イブン・アン=ナフィースが同じ考えを書き残していたが、それはヨーロッパには知られていなかった。パドヴァ大学の解剖学者ファブリキウスは、1603年、静脈の内側に小さな弁があることを詳しく記した。ただ彼は、弁は血が末端へ流れすぎないよう勢いを弱めるためのものだと考えていた。

そのファブリキウスのもとで学んだのが、ウィリアム・ハーヴェイ(ウィリアム・ハーヴェイ)である。1578年、イングランド南東部の港町フォークストンの裕福な家に生まれ、ケンブリッジで学んだのち、当時ヨーロッパ最高の医学校だったパドヴァに留学して、1602年に学位を得た。帰国してロンドンで開業し、聖バーソロミュー病院の医師となり、王立医師会で解剖学の講義を受け持った。やがて国王ジェイムズ1世と、その子チャールズ1世の侍医となる。彼は人間だけでなく、蛇、魚、蛙、鳥、犬、鹿など数十種類の動物を解剖し、生きた動物の心臓が実際にどう動くかを、長い年月をかけて観察し続けた。
1628年、ハーヴェイはその成果を、ドイツのフランクフルトの出版者から、ラテン語の小さな本として出した。『動物における心臓と血液の運動について』、わずか72ページで、紙は粗末、誤植も多かった。フランクフルトの書籍見本市を通じて、ヨーロッパ中の学者に届けるためだったと考えられている。巻頭には、国王が国の心臓であるように、心臓は体の王である、という趣旨の、チャールズ1世への献辞が掲げられた。

ハーヴェイの議論の核心は、量の計算にあった。心臓が一度縮むたびに送り出す血の量と、1分間に打つ回数を掛け合わせてみる。彼はわざと少なめに見積もった数字を使ったが、それでも30分ほどのうちに心臓から送り出される血の量は、体の中にある血液の全量を上回ってしまう。肝臓が、それほどの量の血を、食べた物からそのつど作り出せるはずがない。体の端々で、それほどの血が消えてなくなっているはずもない。だとすれば、答えは一つしかない。同じ血が、体の中をぐるぐると回っているのである。彼はこれを、円を意味するラテン語にちなんで「循環」と呼んだ。
彼はその考えを、簡単な実験で確かめてみせた。腕を紐できつく縛ると、縛った所より手の側の静脈が膨れ、心臓の側は膨れない。静脈の血は、手の側から心臓の方へ流れているのである。浮き出た静脈の弁のところを指で押さえ、血を押しのけてみると、血は心臓へ向かってしか戻ってこない。静脈の弁は、師ファブリキウスが考えたように流れを和らげるためのものではなく、血が逆流するのを防ぐ弁だったのである。さらに彼は、心臓が血を送り出すのは、広がるときではなく、筋肉が縮むときであること、手首などで感じる脈は、動脈そのものが自ら動いているのではなく、心臓から押し出された血の波によるものであることを示した。心臓は、血を押し出すための筋肉の袋だったのである。

ただし、一つ大きな穴が残っていた。動脈の末端から静脈の末端へ、血はどうやって移るのか。ハーヴェイはそれを目で確かめることができず、肉の中の細かな隙間を通って移るのだろう、と推測するしかなかった。その答えが見つかったのは、彼の死から4年後の1661年である。イタリアのボローニャのマルピーギが、顕微鏡で蛙の肺を観察し、動脈と静脈をつなぐ髪の毛より細い血管、毛細血管を見つけた。のちにレーウェンフック(レーウェンフックの微生物)も、生きた動物の尾で血が細い管を流れる様子を観察している。
反響は大きく、反発も強かった。パリ大学の解剖学者ジャン・リオランをはじめ、ガレノスを奉じる多くの医師たちが彼を攻撃した。ラテン語で循環を意味する言葉が、怪しげな薬を売り歩く大道のいかさま師を指す言葉に似ていることから、からかわれもした。ハーヴェイの友人だった伝記作家オーブリーは、あの本が出てから彼の患者は目に見えて減った、世間は彼を変人だと思い、医師たちはこぞって反対した、と書き残している。一方、哲学者ルネ・デカルトは1637年の『方法序説』で、血液の循環をいち早く認め、イングランドの医師の功績として紹介した。ただしデカルトは、心臓の運動の原因を、心臓の中の熱で血が膨らむためだと考え、その点ではハーヴェイと意見を異にした。1649年、ハーヴェイはリオランに答える論考を発表し、改めて自説を擁護した。
その間、イングランドは内戦に引き裂かれていた(清教徒革命と国王処刑)。王の侍医だったハーヴェイは国王の側に従い、1642年のエッジヒルの戦いでは、王子たちの世話を任されていた。同じころ、ロンドンの彼の住まいは議会派の兵に荒らされ、長年書きためた昆虫の発生などについての研究の記録が失われた。晩年の1651年には、動物の発生を論じた大著を出し、すべての生き物は卵から生じる、という考えを示した。

1657年、ハーヴェイは79歳で死んだ。そのころには、血液の循環はすでに医師の間で広く受け入れられつつあった。哲学者トマス・ホッブズは、自分の知るかぎり、ハーヴェイは生きているうちに自らの新しい学説が確立されるのを見た、ただ一人の人物である、と書いている。72ページの小さな本は、1400年続いたガレノスの体系を崩し、体を測り、数え、確かめる対象として扱う近代医学の出発点となった。