ナイロン
概要
デュポンが、実用を求めない基礎研究の部門を作り、ハーヴァードからウォーレス・カロザースを招いた。当時、高分子が長い鎖状の分子であることは、まだ論争の対象だった。彼はそれを合成で示し、その過程で溶融した樹脂から糸が引けることに気づく。1935年、ナイロン66が得られた。石炭と空気と水から作る、と宣伝された。1940年に売り出された靴下は初日で完売し、戦時中は落下傘に回された。カロザースは発売を見ずに、うつ病により自ら命を絶っている。
場所
39.75°N -75.55°E · アメリカ・デラウェア州
関わった人(1)
ウォーレス・カロザースAD1896年4月27日–AD1937年4月29日 · 合成した本文
1920年代、化学者たちは、ゴムや絹やセルロースのような物質の正体をめぐって争っていた。ドイツの化学者ヘルマン・シュタウディンガーは、それらは原子が何千、何万とつながった、極めて長い鎖のような一つの分子だと主張し、「巨大分子」と呼んだ。多くの化学者は反対した。そんなに大きな分子があるはずはない、小さな分子が何かの力で寄り集まっているだけだ、というのである。ある高名な化学者は、巨大分子という考えは捨てたまえ、有機の分子で分子量が5000を超えるものなどない、とシュタウディンガーに忠告したと伝えられる。
この論争に、思いがけない場所から決着をつけたのが、アメリカの化学会社デュポンだった。デュポンは1802年に創業した火薬の会社で、第一次世界大戦で巨額の利益を上げ、のちに「死の商人」と批判されもした。1920年代には、塗料やフィルムなどへ事業を広げつつあった。1927年、研究部門の責任者チャールズ・スタインは、すぐに役に立つことを目的としない、純粋な基礎研究の部門を作ろうと提案した。会社がそんなことに金を出すのは、当時としては極めて珍しかった。社内ではこの研究所を、皮肉と敬意を込めて「純粋の殿堂」と呼んだ。

デュポンが招いたのは、ハーヴァード大学で有機化学を教えていた30代の初めのウォーレス・カロザースだった。彼は初め、自分は神経の不調を繰り返すたちで、会社勤めに耐えられるとは思えない、という意味の手紙を書いて断った。デュポンは、研究の中身は自由に選んでよいという条件と、大学より高い給料を示した。1928年、彼はデュポンに移った。
カロザースが選んだ課題は、まさに巨大分子の論争だった。シュタウディンガーの説が正しいなら、小さな分子を一つずつ確実につないでいけば、高分子と同じ性質のものが作れるはずである。自然の物質を観察するのではなく、自分の手で作って示す。彼はつなぎ方の分かっている化学反応を使い、両端に反応する部分を持つ分子をつなげて、長い鎖を組み上げていった。

1930年、研究所は二つの成果を上げた。一つは、助手のアーノルド・コリンズが、アセチレンから作った物質を重ねてつなげ、弾む固体を得たことである。これはのちにネオプレンという名で売り出された、油に強い合成ゴムになった。もう一つは、助手のジュリアン・ヒルが、溶けたポリエステルの樹脂にガラス棒を差し込んで引き上げたところ、糸が長く伸びたことである。その糸は冷えた後でさらに引き伸ばすことができ、伸ばすほど強く、つやが出た。引っ張ると分子の鎖が同じ向きにそろうためである。ヒルたちが、カロザースの留守に樹脂から糸を引いて廊下を走り、どこまで伸びるか競い合ったという話が伝わっている。
ただ、このポリエステルは融ける温度が低く、湯や溶剤に弱かった。服の糸には使えない。洗濯やアイロンに耐えるポリエステルの繊維は、1941年にイギリスの化学者たちが別の原料から作ることになる。カロザースたちは別の組み合わせを試し続けた。

1935年2月28日、チームのジェラルド・バーチェットが、炭素を6つ持つ二つの原料、ヘキサメチレンジアミンとアジピン酸から、新しい高分子を作った。原料の炭素の数にちなんで「66」と呼ばれた。分子のつなぎ目はアミド結合で、これは絹や羊毛のたんぱく質をつないでいる結合と同じ種類である。融ける温度は260度を超えて高く、水にも強い。そして細く、しなやかに、強く引くことができた。絹の代わりになる糸だった。当時アメリカは絹の大部分を日本から買っており、その日本との関係は悪くなりつつあった。
工場で大量に作れるようにするまでに、さらに数年かかった。原料を安く大量に作る方法、糸を紡ぐ装置、染める方法。デュポンは巨額の資金をつぎ込んだ。1938年10月、会社はこの新しい繊維を公表した。名前は「ナイロン」。石炭と空気と水から作られ、鋼のように強く、蜘蛛の糸のように細い、と宣伝された。原料のベンゼンは石炭から、窒素は空気から取るので、宣伝として間違いではない。強さについての言い方には、誇張が混じっていた。

名前の由来については、ニューヨークとロンドンの頭文字だという話が広まったが、これは後から作られた話である。デュポンの記録では、「伝線しない」という意味の言葉から出発して、発音しやすいように少しずつ変えていったとされる。実際のナイロンの靴下は、伝線した。
1940年5月15日、ナイロンのストッキングが全米で売り出された。店の前には行列ができ、最初の数日で数百万足が売れたと言われる。ところが翌年12月、真珠湾攻撃でアメリカが戦争に入ると、ナイロンの生産はほとんど軍に回された。落下傘は、それまで絹で作られていた。その絹は、いまや敵国となった日本から来ていたのである。ナイロンは落下傘のほか、ロープ、テント、タイヤの補強材、蚊帳にも使われた。女性のストッキングは店から消え、脚に縫い目の線を描いて、はいているように見せる人もいた。1945年に生産が民間向けに戻ると、再び長い行列ができ、店先でもみ合いになる騒ぎも起きた。

カロザースは、この成功を見ていない。若いころから重いうつを繰り返していた彼は、ナイロンを作った後も、自分はもう新しいものを生み出せないという思いに苦しみ、入院して治療も受けていた。1936年1月には、最も親しかった妹が急死し、深く打ちのめされた。同じ年、彼は産業界の有機化学者として初めて、全米科学アカデミーの会員に選ばれている。1937年4月29日、彼はフィラデルフィアのホテルの一室で、レモンの果汁に溶かした青酸カリを飲んで命を絶った。41歳だった。妻は妊娠しており、7か月後に娘が生まれた。
ナイロンは合成繊維の時代を開いた。ポリエステル、アクリル、のちにはポリプロピレン。いまでは世界で作られる繊維の3分の2ほどが合成繊維である。少し前に生まれたベークライトと合成樹脂のような樹脂と合わせて、合成の高分子は暮らしのあらゆるところに入り込んだ。そして、合成繊維の服を洗うたびに出る細かな繊維くずが、微細なプラスチックとして海に流れ込んでいることも分かってきた。

論争の勝者もはっきりした。高分子は長い鎖の分子である。カロザースが小さな分子をつないで高分子を作ってみせたことが、シュタウディンガーの説を決定的に裏づけた。シュタウディンガーは1953年にノーベル化学賞を受けた。基礎研究を目的に作られた会社の研究所が、会社に最大級の利益をもたらす製品を生んだことも、その後の企業の研究のあり方に大きな影響を与えた。ただ、その研究所の中心にいた人は、自分の発見が世界を変えるのを見ることなく、深い孤独の中で世を去った。