ラーズィー『天然痘と麻疹について』
概要
二つの病を初めて区別して書いた。発疹の出方、熱の経過、看護の方法。ガレノスに無い病気を、自分で見て書いた。ラテン語に訳され、18世紀まで読まれた。
場所
35.59°N 51.44°E · イラン・テヘラン
関わった人(1)
ラーズィーAD865年頃–AD925年頃 · 著者本文
アブー・バクル・ムハンマド・イブン・ザカリヤー・アッラーズィーは、9世紀の半ば、いまのテヘランの南にあった町レイに生まれた。ラテン語の世界ではラーゼスの名で知られるラーズィーである。若いころは音楽を好み、錬金術にも打ち込んだと伝えられ、医学を本格的に学びはじめたのは30歳を過ぎてからだったとされる。やがて故郷レイの病院を任され、アッバース朝の都バグダードでも病院の長を務めた。新しい病院を建てる場所を選ぶとき、町のあちこちに肉を吊るし、いちばん腐りにくかった場所を選んだという話も伝わるが、後の時代の伝説と見られている。
当時のイスラーム世界では、バグダードの知恵の館などを通じて、ギリシアの医学書が次々にアラビア語に訳されていた。中でも重んじられたのが、2世紀のローマの医師ガレノスの書物である(ガレノスの医学)。人の体は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四つの体液の釣り合いで保たれ、その乱れが病を生む、という考え方が医学の土台だった。ラーズィーもガレノスを深く学び、その考えの枠組みの中で医学を組み立てた。

しかし、ラーズィーは書物に書かれたことをそのまま受け入れる人ではなかった。彼は『ガレノスへの疑い』という本を書き、尊敬する先人の説でも、自分が患者を診て確かめたことと合わなければ、それを指摘した。医師は書物を読むだけでなく、自分の目で患者を観察しなければならない、というのが彼の考えだった。彼は自分が診た患者の経過を、細かく書き留め続けた。
『天然痘と麻疹について』は、そうした観察から生まれた短い本である。天然痘と麻疹は、どちらも熱が出て全身に発疹ができる病気で、それまではしばしば混同されていた。ガレノスの書にも、この病についてのまとまった記述は無かった。ラーズィーは、先人の書物のあちこちに残る手がかりを拾い集めたうえで、自分の見た多くの患者をもとに、二つの病の違いを章を分けて書いた。この二つを区別して書いた最初の本として知られている。
本の説明は、四体液の理論に沿っている。天然痘は、子どもの血が若いぶどう酒のように泡立って沸き立つことで起こる、と彼は考えた。そのため、ほとんどの人が一生に一度はかかるのだという。理論は今日から見れば誤りだが、症状の書き方は具体的だった。続く熱、背中の痛み、鼻のかゆみ、眠りの中でのうなされ、目の赤み、顔のむくみ、のどの痛み。そのうえで、背中の痛みは天然痘で強く、不安や吐き気は麻疹で強い、というように、二つを見分ける手がかりを挙げた。発疹の出方や色から、治りやすいか命にかかわるかを見通す方法も書いている。
手当ての章では、熱を下げる飲み物、発疹がうまく出るようにする工夫、のどや目を守る方法、膿疱が潰れて跡が残らないようにする手当てなどが述べられている。目に薬を差して失明を防ぐこと、病人の部屋を涼しく保つこと、食べ物の選び方にも気を配っている。天然痘が治ったあとに顔や体に残る痕は、当時の人々にとって大きな悩みだった。

ラーズィーは、この本のほかに、膨大な医学の書を残した。中でも『包括の書』と呼ばれる大著は、ギリシア、インド、ペルシアの医学書からの引用と、自分が診た患者の記録を、病気ごとに書き集めたものである。生前には完成せず、死後に弟子たちが、残された覚え書きをまとめたとされる。晩年のラーズィーは目を悪くし、ほとんど見えなくなっていたと伝えられる。亡くなったのは925年ごろとされるが、935年とする説もある。
ラーズィーの書物はラテン語に訳され、ヨーロッパの医学に大きな影響を与えた。『包括の書』は1279年、シチリアのユダヤ人の医師ファラジュ・イブン・サーリムが、アンジュー家のシャルルの命でラテン語に訳した。『天然痘と麻疹について』も、ラテン語訳が15世紀の末にヴェネツィアで印刷されて以来、何度も版を重ね、18世紀にもロンドンでアラビア語の原文とラテン語訳が出版された。19世紀には英語にも訳されている。一世代後のイブン・スィーナーの『医学典範』とともに、ラーズィーの書物は、何百年ものあいだヨーロッパの大学で読まれた。

天然痘を防ぐ手立ては、ラーズィーの時代にはまだ無かった。18世紀に人痘接種がヨーロッパに広まり、1796年にジェンナーの種痘が始まって、天然痘はようやく防げる病になる。それでも、病を自分の目で観察し、似た病気を区別して記録するというラーズィーのやり方は、近代の医学の考え方を先取りするものだった。千年以上前に書かれたこの短い本は、天然痘という病を正確に描いた古い記録として、天然痘の根絶宣言の後の時代にも読まれ続けている。