人物

グレゴール・メンデル

Gregor Mendel
AD1822年7月20日 – AD1884年1月6日(享年61)
オーストリア帝国重要度 4

概要

修道院の庭でエンドウを8年育て、遺伝が規則に従うことを見つけた。論文は35年間ほとんど読まれず、本人の死後に再発見される。

関わったできごと(1)

メンデルのエンドウの論文AD1866年 · 著者

本文

1822年7月20日、オーストリア帝国のシレジア地方、ハインツェンドルフという村に生まれた。いまのチェコ東部にあたる。洗礼名はヨハン。小さな農家の一人息子で、父の果樹の接ぎ木を手伝いながら育った。村の学校の先生や牧師が、この子の頭の良さに気づいて上の学校へ進ませた。

グレゴール・メンデルの肖像
グレゴール・メンデルの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

家は貧しかった。父が木の下敷きになる事故で働けなくなると、学費を払えなくなった。妹が自分の嫁入りの持参金の一部を回してくれたことで、どうにか学び続けられたと伝えられる。何度も体を壊し、学業を中断している。

1843年、ブリュン(いまのチェコのブルノ)の聖トマス修道院に入り、グレゴールの名を受けた。本人は後に、生活の心配をしなくてよい身分が必要だったと書いている。この修道院は学問を重んじ、科学に関心を持つ修道士が集まっていた。

修道士姿のグレゴール・メンデル
修道士姿のグレゴール・メンデルWikimedia Commons Bateson, William · Public domain

高校の代用教員を務めたが、正教員の資格試験には落ちた。修道院長の計らいで、1851年から2年間、ウィーン大学で物理、数学、植物学を学んだ。物理はドップラー効果で知られるドップラーに習っている。ここで学んだ実験の組み立て方と、数で考える習慣が、後の研究を形づくった。

1856年頃から、修道院の中庭の一角でエンドウを育てはじめた。エンドウは自分の花粉で実を結ぶので、純粋な系統を保ちやすく、人の手で別の株の花粉を付けるのも簡単だった。種が丸いか、しわか。草丈が高いか、低いか。はっきり二つに分かれる性質を7つ選び、掛け合わせては次の代を育てて数えた。8年ほどの間に育てた株は、2万8千とも、それ以上ともいわれる。

グレゴール・メンデルの胸像
グレゴール・メンデルの胸像Wikimedia Commons Michal Maňas · CC BY 3.0

結果は驚くほど規則的だった。丸い種の系統としわの種の系統を掛け合わせると、子はすべて丸くなる。その子どうしを掛け合わせると、孫では丸としわがおよそ3対1で現れる。しわという性質は消えたのではなく、隠れていただけだった。メンデルは、性質を決める何かが親から一つずつ受け渡され、混ざり合わずに次の代へ伝わると考えた。生物学に数学と統計を持ち込んだのが、この人の新しさだった。

1865年、ブリュンの自然科学会で2回にわたって発表し、翌1866年、会の紀要に論文が載った(メンデルのエンドウの論文)。紀要はヨーロッパ各地の図書館に送られたが、ほとんど読まれなかった。数を数えて比を出すという方法が、当時の植物学者には見慣れないものだったためとされる。著名な植物学者ネーゲリに論文を送って手紙をやりとりしたが、ネーゲリは真価を認めず、別の植物での実験を勧めた。その植物は特殊な増え方をするため、メンデルの法則に合わない結果が出て、本人を戸惑わせた。

チャールズ・ダーウィンの『種の起源』は1859年に出ていた。ダーウィンの進化の理論は、性質がどう受け継がれるかを説明できない弱みを抱えていた。メンデルの論文はその答えになりえたが、ダーウィンが読んだ形跡は無い。ダーウィンの書斎に論文が届いていたという話も、根拠が薄いとされる。

『種の起源』に関わる図版:Origin of Species title page
『種の起源』Wikimedia Commons John Murray, Publisher · Public domain

1868年、修道院長に選ばれた。地元の名士として銀行の役職なども務め、行政に追われて研究から離れていった。晩年は、修道院への新しい税をめぐって政府と争い続けた。気象の観測や、ミツバチの飼育には最後まで熱心だった。「私の時代はいつか来る」と語ったと伝えられるが、後の伝記が広めた言葉ともいわれる。1884年1月6日、腎臓の病で亡くなった。61歳だった。死後、後任の院長が書類の多くを焼いたと伝わる。

1900年、オランダのド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマクの三人が、それぞれ別に同じ規則にたどり着き、先行する研究を探してメンデルの論文を見つけた。本人の死から16年後である。ここから遺伝学が始まり、やがて遺伝子の正体を突き止める研究(DNAの二重らせん)へつながっていく。

1864年のブルノ実科学校の教員たちと写るメンデル(右から2番目、「2」と記載。「1」はアレクサンダー・ザヴァツキー)
1864年のブルノ実科学校の教員たちと写るメンデル(右から2番目、「2」と記載。「1」はアレクサンダー・ザヴァツキー)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1936年、統計学者フィッシャーは、メンデルの数字は理論の予想にあまりにもよく合いすぎていると指摘した。都合のよい結果を選んだのではないか、手伝いの者が気を利かせたのではないか、という議論はいまも続いている。それでも、規則そのものが正しかったことに変わりはない。

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