人物

ルイ・パスツール

Louis Pasteur
AD1822年12月27日 – AD1895年9月28日(享年72)
フランス重要度 5

概要

腐敗も病気も目に見えない生きものの仕業だと示した。ワクチンと低温殺菌はここから来ている。手を洗うという習慣の根拠でもある。

関わったできごと(3)

発酵は生き物の仕事であるAD1857年 · 示した白鳥の首フラスコAD1861年 · 実験狂犬病のワクチンAD1885年7月6日 · ワクチンを作り、投与を決めた

本文

1822年12月27日、フランス東部ジュラ地方の町ドールに生まれ、近くのアルボワで育った。父はなめし革の職人で、ナポレオンの軍隊の元軍曹だった。少年の頃は絵が上手で、家族や近所の人の肖像をパステルで描いている。成績はとびぬけたものではなかったが、粘り強かった。

ルイ・パスツールの肖像
ルイ・パスツールの肖像Wikimedia Commons Paul Nadar · Public domain

パリの高等師範学校で化学と物理を学び、化学者として出発した。ワインの樽にたまる酒石酸と、それと同じ組成なのに光に対して違うふるまいをするパラ酒石酸の結晶を顕微鏡で調べ、パラ酒石酸の結晶には、右手と左手のように互いに鏡に映した形の二種類が混じっていることを見つけた。ピンセットで一つずつ選り分けたのが最初の仕事になる。生き物が作る物質の多くはこの左右の一方だけでできている、という発見の出発点になった。25歳だった。

ストラスブール大学で教えていた頃、学長の娘マリー・ローランと結婚した。マリーは生涯、彼の口述を書き取り、研究を支えた。5人の子のうち3人を、腸チフスなどの病で幼くして失っている。

パスツールの生家(ドール)
パスツールの生家(ドール)Wikimedia Commons KBWEi 21:29, 8. Okt. 2007 (CEST) · Public domain

1854年、北フランスの工業都市リールの大学の理学部長になった。就任の講演で、観察の分野では、偶然は準備のできた心にだけ味方する、と述べている。まもなく、地元のテンサイからアルコールを造る業者から、発酵がうまくいかずに酸っぱくなる原因を調べてほしいと頼まれた。これが微生物へ入るきっかけになる。顕微鏡で調べると、うまくいった樽には丸い酵母が、駄目になった樽には細長い別の微生物がいた。発酵は単なる化学反応ではなく、生きた微生物の働きだと彼は主張した。

1860年代には、皇帝ナポレオン3世の依頼を受けて、フランスの重要な輸出品だったワインが傷む原因を調べた。やはり微生物の仕業だった。ワインを摂氏50度から60度ほどに短時間温めると、味をあまり損なわずに微生物を殺し、長く保たせられることを示した。低温殺菌(パスチャライゼーション)は、ワインとビールを保たせるために考えたものになる。いまでは牛乳をはじめ多くの食品に使われている。

ルイ・パスツール(1878年、パリ、A・ゲルシェル撮影)
ルイ・パスツール(1878年、パリ、A・ゲルシェル撮影)Wikimedia Commons A Gerschel · Public domain

当時は、生き物は腐った肉汁などから自然に湧いてくるという自然発生説が根強かった。彼は首を白鳥の首のように長く曲げたフラスコを作り、煮沸した肉汁を入れた。空気は通るが、空気中のちりと微生物は曲がった首にとどまる。肉汁は何か月たっても腐らなかった。首を折ると、すぐに微生物が増えた。自然発生説を実験で退けた。

続いて、南フランスで絹の生産を壊滅させかけていたカイコの病気を調べ、病気の蛾の卵を選り分ける方法で立て直した。この研究の最中の1868年、脳卒中で倒れ、左半身が不自由になる。それでも研究は続けた。

実験室で実験するパスツール
実験室で実験するパスツールWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

病気の原因が微生物だという説(細菌説)を押した。病気は体の中から自然に生じるのではなく、外から入ってくる特定の微生物が引き起こす。ドイツのロベルト・コッホが炭疽の病原菌を突き止め、イギリスの外科医ジョゼフ・リスターは彼の研究に学んで、手術器具や傷口を消毒する方法を始めた(リスターの消毒法)。手を洗い、器具を煮沸するという習慣の根拠は、ここにある。普仏戦争の後、フランス人の彼とドイツ人のコッホは、国の対立も背負った激しいライバルになった。

1879年、ニワトリのコレラの病原菌の古い培養を接種したニワトリが、病気にならず、その後に新しい菌を接種しても発病しないことに気づいた。弱めた病原体で免疫をつけられる。80年あまり前にエドワード・ジェンナーが牛痘で天然痘を防いだ方法を、ほかの病気に広げる道が開けた(ジェンナーの種痘)。彼はジェンナーに敬意を表して、こうした予防の方法を広くワクチンと呼ぼうと提案した。1881年には、パリ郊外の農場で、炭疽のワクチンを接種した羊と接種しない羊に病原菌を与える公開実験を行い、接種した羊がすべて生き残ることを示した。

リール・パスツール研究所
リール・パスツール研究所Wikimedia Commons Lamiot · CC BY 3.0

狂犬病では、病原体を顕微鏡で見ることができなかった。いまではウイルスによると分かっている。彼は感染したウサギの脊髄を乾燥させて毒を弱め、犬で予防の効果を確かめていた。1885年7月、アルザスから、狂犬に何か所も噛まれた9歳の少年ジョゼフ・マイスターが母に連れられてやってきた(狂犬病のワクチン)。彼は医師の資格を持たない。協力する医師に注射させ、10日あまりかけて、弱めたものから強いものへと接種を重ねた。失敗すれば起訴されかねない状況だった。少年は助かった。続いて、子どもたちを守って狂犬に噛まれた羊飼いの少年も救った。

この成功に世界中から寄付が集まり、1888年、パリにパスツール研究所が開かれた。研究所はやがて、ジフテリアの治療や、のちにエイズのウイルスの発見など、多くの成果を生む場所になる。

ルイ・パスツールの肖像(フランソワ・ラフォン画、1883年)
ルイ・パスツールの肖像(フランソワ・ラフォン画、1883年)Wikimedia Commons François Lafon · Public domain

1895年9月28日、パリ近郊で死んだ。72歳だった。遺骸はのちに研究所の地下の霊廟に移された。

彼は生前、実験ノートを家族以外に見せないよう言い残していた。ノートは子孫からフランス国立図書館に寄贈され、1970年代に公開された。研究者がそれを読み解くと、論文に書いた手順と実際が違う箇所が見つかっている。炭疽の公開実験では、自分の方法ではなく競争相手の考えた方法で作ったワクチンを使っていた。マイスター少年より前に、狂犬病のワクチンを人に試していたことも分かった。成功だけを見せる書き方をしていた。それでも、微生物が発酵と腐敗と病気を引き起こすことを示し、それを防ぐ方法を作ったという業績は揺らいでいない。

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