できごと

『医学典範』

The Canon of Medicine
AD1025年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民デンマーク=ノルウェーバントゥー系の人びとフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民キメク=キプチャク可汗国チベットキエフ・ルーシブワイフ朝キエフ・ルーシペチェネグファーティマ朝ラージプートの諸王国東ローマ帝国ガズナ朝神聖ローマ帝国ヴォルガ・ブルガール西夏マクリアチョーラ朝チャールキヤ朝ポーランドMagyarsポーランド王国ハザールパーラ朝ブワイフ朝ハンガリー王国スウェーデンアルワプラティーハーラ朝ハドラマウトイエメンバルトの諸部族カリンガカネムSenasアルメニアチャーハマーナ朝アランジョージア王国マスカットPrussiansPomeraniaAD1025年イスファハーン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1025年の版図を描いています(44勢力)。

概要

当時の医学を一冊に整理した。12世紀にラテン語へ訳され、ヨーロッパの大学で17世紀まで教科書として使われつづける。

場所

イスファハーン
32.65°N 51.67°E · イラン(サファヴィー朝の都)

関わった人(1)

イブン・スィーナーAD980年–AD1037年 · 著者

本文

11世紀の初め、ペルシアの学者イブン・スィーナーは、それまでの医学の知識を一つにまとめる大きな書物を書き上げた。アラビア語で書かれ、題は「医学の規範(カーヌーン)」。日本では『医学典範』と呼ばれる。この本は、中東でもヨーロッパでも、数百年にわたって医学の教科書として読まれ続けた。

イブン・スィーナーは980年頃、中央アジアのブハラの近くに生まれた。当時この地を治めていたのは、学芸を重んじたサーマーン朝(サーマーン朝の興り)である。少年のころから飛び抜けた才能を示し、10代で医学を学んで、早くから医者として評判をとった。10代の終わりごろ、病に倒れた君主を治療して、そのほうびに宮廷の図書館に入ることを許された。そこで読んだ膨大な書物が、後の仕事の土台になったと、彼は自伝で書いている。

タジキスタンの20ソモニ紙幣
タジキスタンの20ソモニ紙幣Wikimedia Commons Бонки миллии Тоҷикистон (National Bank of Tajikistan) (banknote), Steve Burke [1] (photo) · Public domain

その後の人生は、穏やかではなかった。サーマーン朝が倒れると、イブン・スィーナーはイランの各地を転々とし、ある町では宰相を務め、ある町では牢に入れられた。昼は政治の仕事をし、夜に弟子たちを集めて本を書いた、と伝えられる。『医学典範』も、そうした放浪の中で、何年もかけて書かれた。完成したのは1020年代、イスファハーンの宮廷に仕えていたころとされる。

この本は5巻からなる。第1巻は、医学の原理を扱う。体の仕組み、病の原因、健康を保つ方法、治療の一般的な考え方。第2巻は、一つひとつの薬について、その性質と効き目を並べたもので、数百の薬が取り上げられている。第3巻は、頭から足の先まで、体の部位ごとの病。第4巻は、熱病のように体全体にかかわる病や、けが、毒。第5巻は、薬を組み合わせて作る調合薬である。

ミニアチュールに描かれたイブン・スィーナー
ミニアチュールに描かれたイブン・スィーナーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

中身の多くは、ギリシアから受け継いだ医学だった。体は四つの体液の釣り合いで保たれ、その釣り合いが崩れると病になる、というヒポクラテス(ヒポクラテス集典と医の誓い)とガレノス(ガレノスの医学)の考えが土台にある。それに、アリストテレスの哲学、インドやペルシアの薬の知識、先輩の医者ラーズィーらの臨床の記録、そして彼自身の経験が加えられた。ギリシアの医学がアラビア語に訳され、イスラーム世界で磨かれてきた成果が、ここで一つの体系にまとめられた。

新しさは、何よりその整理の仕方にあった。散らばっていた知識を、原理から個別の病へ、筋道を立てて並べた。どの症状からどの病を見分け、どう治すかが、引けるように書かれている。医学を、ばらばらの経験の集まりではなく、一つの学問として示した。

ティムール朝(15世紀初頭?)で書かれた『医学典範』(Kitāb al-Qānūn fī al-ṭibb)の写本
ティムール朝(15世紀初頭?)で書かれた『医学典範』(Kitāb al-Qānūn fī al-ṭibb)の写本Wikimedia Commons User Allen3 on en.wikipedia · Public domain

薬を試すときの心得も書かれている。薬は混ぜ物の無い状態で試すこと。一つの病だけでなく、いくつかの場合で試すこと。効き目が出るまでの時間を確かめること。動物で試しただけでは、人に効くとは言えないこと。今日の臨床試験の考え方に通じるものとして、よく取り上げられる。病が水や土を通じて広がる可能性にふれた記述もあり、伝染についての考えの先駆けとして注目されることがある。ただし、それを細菌の発見の先取りとまで言うのは言い過ぎだろう。

この本は、イスラーム世界で医学の標準の教科書となり、多くの注釈が書かれた。13世紀のシリアの医者イブン・ナフィースは、この本の注釈の中で、血液が肺を通って心臓の右から左へ流れることを説いている。

ラテン語に訳された『医学典範』
ラテン語に訳された『医学典範』Wikimedia Commons en:User:Zereshk · Public domain

12世紀、スペインのトレドで、イタリア出身の学者ジェラルドがこの本をラテン語に訳した。トレドは、1085年にキリスト教徒の手に戻ったあと(トレドの陥落)、アラビア語の学問をラテン語に移す拠点になっていた。ラテン語の『典範』は、ヨーロッパの大学の医学部で中心の教科書になった。活版印刷が始まると何度も刷られ、イタリアやフランスの大学では、17世紀ごろまで講義に使われ続けた。

権威になりすぎた本は、反発も招く。1527年、スイスのバーゼルで、医者パラケルススは、ガレノスやイブン・スィーナーの本を火に投げ込んでみせた(パラケルススのガレノス焼却)。書物の言葉ではなく、自然そのものと患者を見よ、と。16世紀にはヴェサリウス『ファブリカ』が人体の構造についての古い誤りを正し、17世紀にはハーヴェイの血液循環が血液の流れを明らかにした。そうして、『医学典範』は少しずつ教科書の座を降りていった。

『医学典範』第1巻序文の冒頭(アラビア語写本、1597年)
『医学典範』第1巻序文の冒頭(アラビア語写本、1597年)Wikimedia Commons Public domain

それでも、この本が果たした役割は大きい。ギリシアの医学を受け継ぎ、整え、数百年にわたって東西の医者たちに手渡した。イブン・スィーナーは、哲学の大著も残し、イスラーム世界では「師の中の師」と呼ばれた。1037年、彼はイランのハマダーンで死んだ。その墓は、いまもハマダーンにある。

同じ時代のできごと

『源氏物語』AD1008年頃タンジャーヴールの大寺院AD1010年『シャー・ナーメ(王書)』AD1010年『光学の書』AD1021年頃占城稲の導入AD1012年スヴェンのイングランド征服AD1013年クロンターフの戦いAD1014年4月23日クレイディオンの戦いAD1014年7月29日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1025年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →