パラケルススのガレノス焼却
概要
バーゼル大学の医学教授が、聖ヨハネの日の焚き火に古典の医学書を投げ込み、ラテン語でなくドイツ語で講義した。病気は体液の不均衡ではなく外から来る、と。1年で追われ、放浪して死んだ。
場所
47.56°N 7.59°E · スイス
関わった人(1)
パラケルススAD1493年–AD1541年9月24日 · 医師本文
16世紀の初めのヨーロッパの大学では、医学は書物の学問だった。学生はラテン語で、古代ローマのガレノスの医学と、それをまとめ直した中世のイスラーム世界の医学書、とりわけイブン・スィーナー(アヴィセンナ)の『医学典範』を学んだ。病気は体の中の四つの体液のつり合いが崩れることで起き、治療とは、血を抜いたり下剤をかけたりして、そのつり合いを戻すことだった。教授は古典を読み上げて注釈をつけ、自分で患者を診ることはあまりなかった。
1527年の春、この世界に一人の異端者が乗り込んできた。スイスのアインジーデルン近くに生まれ、各地を渡り歩いてきた医師、パラケルススである。彼は、ヨーロッパの各地の大学を回り、鉱山や戦場で外科医として働き、民間の治療者や錬金術師からも知識を集めてきた。その年、バーゼルの有名な印刷業者ヨハン・フローベンが、脚の病で切断を勧められていたのを、切らずに治したと伝えられる。フローベンの家に身を寄せていたエラスムスも彼の診察を受け、二人は手紙を交わした。この評判を背景に、パラケルススはバーゼルの市の医師に任命された。市の医師には、大学で講義をする権利がついていた。

大学の医学部は、この任命を認めなかった。正式な学位を確かめられない、よそ者の医師だったからである。パラケルススは意に介さなかった。6月、彼は講義の予告を掲げ、自分はヒポクラテスやガレノスの教えをただ繰り返すのではなく、自分の経験と実地の治療から教える、と宣言した。しかも講義はラテン語だけでなく、ドイツ語でも行うという。聴講は大学の学生だけでなく、床屋外科医や薬屋にも開かれた。学問の言葉であるラテン語を捨てることは、学者の特権そのものへの挑戦だった。
6月24日の聖ヨハネの祝日には、夏至の祭りとして大きな焚き火を焚く習わしがあった。パラケルススは学生たちとその火を囲み、古い医学の書物を炎の中に投げ込んだと伝えられる。投げ込まれたのはアヴィセンナの『医学典範』だったとも、別の本だったともいわれ、史料によって違う。いずれにしても、古典の権威を燃やすという身ぶりは、町じゅうの話題になった。彼は、自分の靴紐のほうが古典の医者たちより多くを知っている、という類の挑発的な言葉を好んで口にした。

パラケルススは、町の薬屋の検査にも乗り出した。腐った薬を高い値で売っている、古い処方にこだわって効かない薬を出している、と薬屋を責め、医師と薬屋が結んだ利益の仕組みにも口を出した。薬屋も医者も、そして大学も、彼を敵とみなした。学生の中にも反発する者が現れ、彼をあざける詩が町に貼り出された。
最後は金をめぐる争いだった。1528年の初め、パラケルススは教会の参事会員の病を治したとして、約束の高い治療費を求めた。参事会員は支払いを拒み、裁判所はずっと低い額しか認めなかった。怒ったパラケルススは、判事たちを激しく罵る文書を書いた。逮捕されることを知った彼は、夜のうちにバーゼルを逃げ出した。この町にいたのは、1年に満たなかった。

その後のパラケルススは、二度と安定した地位を得ることはなかった。アルザス、ニュルンベルク、ザンクト・ガレン、オーストリアの各地を転々とし、患者を診ながら、膨大な量の原稿を書き続けた。その考えは、当時の医学の常識を大きく外れていた。病気は体液の乱れではなく、外から体に入り込む何かによって起きる。病気ごとに、それに効く固有の薬がある。薬は草だけでなく、水銀や硫黄、アンチモンなどの鉱物から化学の手法で作るべきだ。錬金術は金を作るためではなく、薬を作るためのものだ、と彼は説いた。
鉱山で働く人々を見てきた彼は、坑夫たちの肺の病を一冊の本にまとめている。特定の仕事が特定の病を生むという、職業病を論じた最も早い著作の一つとされる。また、あらゆるものは毒であり、毒でないものはない、量だけが毒でなくするのだ、という意味の言葉を残した。この考えは、のちの毒性学の出発点の一つとして、いまもよく引かれる。一方で、彼の著作には、天体と人体の照応、精霊や魔術についての考えもたっぷりと混じっており、近代的な科学者と呼べる人ではなかった。

1541年9月、パラケルススはザルツブルクの宿で亡くなった。47歳か48歳だった。死因ははっきりせず、敵に殺されたとする話も伝わるが、確かなことは分からない。生きているあいだに出版された本はわずかで、著作の多くは死後、1560年代から次々に刊行された。それを読んだ医師たちはパラケルスス派と呼ばれ、鉱物から作る化学の薬は、17世紀にかけてヨーロッパの医学に広く取り入れられていった。
古典の権威に逆らい、ドイツ語で語り、既存の組織と衝突した彼は、同じ時代に教会と対決したマルティン・ルターになぞらえて、「医学のルター」とも呼ばれた。焚き火に本を投げ込んだ夏の夜の出来事は、どこまでが事実でどこからが伝説か、はっきりしない部分もある。だがそれは、書物の権威よりも目の前の患者と経験を信じよ、という医学の転換を象徴する場面として、語り継がれてきた。