できごと

熱と温度は、別である

Latent heat
AD1760年代
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1760年代の版図を描いています(25勢力)。

概要

グラスゴーのジョゼフ・ブラックは、氷に火をあてても、溶けきるまで温度が上がらないことに引っかかった。熱は入っている。温度計は動かない。では入った熱はどこへ行ったのか。彼は、熱が氷を水に変えることそのものに使われていると考え、これを潜んだ熱と呼んだ。沸騰する湯も同じで、湯気になるまで温度は上がらない。同じ重さの物でも、温めるのに要る熱の量が違うことも測った。温度計が指す数と、出入りする熱の量は別物である。この区別が、蒸気機関の効率を考える土台になった。

場所

グラスゴー
55.86°N -4.25°E · イギリス・スコットランド

本文

氷の入った容器を火にかけ、温度計を差して待つ。氷はだんだん溶けて水になっていくが、温度計の目盛は動かない。溶けきるまで、ずっと零度のままである。炭は燃え続けていて、熱は確かに入っている。それなのに数字は変わらない。入った熱は、どこへ行ったのか。

18世紀の半ばまで、熱と温度ははっきり区別されていなかった。温度計はすでにあり、目盛の決め方も整ってきていた(温度の目盛)。しかし、温度計が示す「熱さ」と、物に出入りする「熱の量」が別のものだという考えは、まだなかった。熱いものほど熱をたくさん持っている、というくらいの理解だった。

ジョセフ・ブラック
ジョセフ・ブラックWikimedia Commons James Heath (engraver) after Henry Raeburn · Public domain

ジョゼフ・ブラック(1728〜1799年)は、フランスのボルドーで、ワインを商うスコットランド系の商人の家に生まれた。グラスゴー大学とエディンバラ大学で医学を学び、1750年代には、石灰石を焼くと出てくる気体を秤で丁寧に調べて、それがふつうの空気とは違う「固定された空気」、いまでいう二酸化炭素であることを示していた。空気が一種類ではないことを、重さを量って確かめた仕事である。1756年からグラスゴー大学で化学と医学を教え、1766年にエディンバラ大学へ移った。

氷の問題に取り組んだのは、グラスゴー時代の1760年前後である。やり方は単純だった。同じ重さの氷の塊と、零度近くまで冷やした水を、同じ暖かい部屋に並べて置く。水のほうはすぐに温まっていく。氷のほうは何時間も零度のまま溶け続ける。周りから同じように熱が流れ込んでいるはずなのに、片方は温まり、片方は温まらない。ブラックはこの差を数に直した。氷を同じ重さの水に変えるだけで、その水を零度から八十度近くまで温めるのと同じほどの熱が要る。

グラスゴー大学
グラスゴー大学Wikimedia Commons Diliff · CC BY 3.0

沸騰も同じだった。湯は百度に達すると、いくら火を焚いても温度が上がらない。熱は、湯を湯気に変えるために使われている。しかもその量は、氷を溶かすときよりずっと大きい。ブラックは、物の状態を変えるために使われ、温度計には表れないこの熱を、「潜んだ熱」と呼んだ。いま潜熱と呼ばれるものである。彼は1762年、グラスゴーの学者たちの集まりでこの考えを発表し、その後は大学の講義で毎年のように語った。

ブラックはもう一つのことも測った。同じ重さの違う物、たとえば水と水銀を同じだけ温めようとすると、要る熱の量が違う。水は温まりにくく、そのぶん冷めにくい。水銀はすぐに温まる。物によって熱を抱え込む力が違うのである。これがのちにいう比熱の考え方の出発点になった。海の近くの土地で冬の冷え込みがゆるやかなのも、大量の水が熱をため込んでいるからである。

聖マンゴー大聖堂(グラスゴー)。聖マンゴーは6世紀に町を開いたと伝わる
聖マンゴー大聖堂(グラスゴー)。聖マンゴーは6世紀に町を開いたと伝わるWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ちょうどそのころ、グラスゴー大学には、大学の器械を作り、修理する若い職人がいた。ジェームズ・ワットである。ブラックは彼と親しくなり、金を貸して事業を助けもした。1763年ごろ、ワットは大学が持っていたニューコメンの蒸気機関の模型の修理を頼まれた。この機関は、一つの筒に蒸気を入れては水をかけて冷やし、蒸気を水に戻して中を真空に近くし、大気の圧力でピストンを押し下げる。そしてまた蒸気を入れる。動かしてみると、模型はすぐに蒸気を使い果たし、石炭をひどく食った。

理由は、筒を冷やすたびに熱を捨てていることにあった。冷えた筒に次の蒸気を入れると、蒸気はまず筒を温め直すのに使われ、その途中で水に戻ってしまう。湯気が水に戻るときには、潜んでいた大量の熱を吐き出す。その熱が、毎回むだになっていた。1765年、ワットは蒸気を冷やして水に戻す場所を筒の外に分けることを思いついた。筒はいつも熱いまま保てる。こうして生まれたワットの蒸気機関は、同じ仕事をするのに要る石炭を大きく減らした。

ブラックの考えがそのままワットの設計になったのかどうかは、議論がある。ワットは後年、ブラックから多くを学んだと語った一方で、蒸気の潜熱の大きさには自分で機械をいじるなかで気づき、それをブラックに確かめたのだとも述べている。どちらにしても、同じ大学の同じ時期に、熱の量を数えようとする学者と、燃料を減らしたい職人が隣り合っていたことは確かである。

ブラックは物静かで慎重な人で、自分の発見を本にまとめることをほとんどしなかった。その考えは講義を通じて弟子たちに広まり、彼の死後に講義録として出版された。友人にはアダム・スミスやデイヴィッド・ヒュームがいて、スミスが死んだとき、遺稿の整理を任されたのは、ブラックと地質学者ジェームズ・ハットンの二人だった。

温度は熱くなり方であり、熱は量である。この区別がなければ、「何度まで上げるか」しか考えられず、「どれだけ入れて、どれだけ捨てたか」を数えられない。効率という言葉も使えない。それから百年ほどのちに、熱の出入りをきちんと数える熱力学という学問が生まれる。その最初の一段は、温度計が動かない時間に目を留めたことだった。

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