できごと

『中国の科学と文明』の刊行

Science and Civilisation in China
AD1954年
重要度 4
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概要

中国には科学と技術の長い蓄積があった。ではなぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。この問いと、それを支える膨大な証拠が、一人の生化学者から始まった。

場所

ケンブリッジ
52.21°N 0.12°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

ジョゼフ・ニーダムAD1900年12月9日–AD1995年3月24日 · 著者

本文

ジョゼフ・ニーダムは、1900年にロンドンで生まれた。ケンブリッジ大学で学び、胚の発生を化学の面から調べる生化学者として、30代で大部の専門書を著していた。キリスト教の信仰を持ち、社会主義に共鳴する、幅の広い関心の持ち主でもあった。

1937年、三人の中国人の留学生が彼の研究室にやって来た。その一人、南京出身の魯桂珍との出会いが、彼の人生を変えた。中国の科学が西洋に劣らない歴史を持つことを彼女から聞き、ニーダムは37歳で中国語を学びはじめる。漢字を覚えるために、自分なりの辞書を作ったという。

ジョゼフ・ニーダムと中国科学史の研究者たち(1988年)
ジョゼフ・ニーダムと中国科学史の研究者たち(1988年)Wikimedia Commons Welcome Collection · CC BY 4.0

1942年、日中戦争のさなか、イギリス政府は彼を中国へ送った。英国大使館の科学参事官として、臨時の首都重慶に科学協力の事務所を置き、戦火を避けて内陸へ移った大学や研究所を回って、本や機材を届けた。1946年までの4年間、彼はトラックで中国の各地を長く旅した。道中で、彼は古い書物を買い集め、各地の職人の技に目をみはった。製鉄、製塩の深い井戸、橋、天文台。ヨーロッパでは知られていない発明が、ずっと昔からそこにあった。

イギリスに戻ったニーダムは、計画を立てた。中国の科学と技術の歴史を、一冊の本にまとめる。歴史学者の王鈴が助手に加わり、のちに魯桂珍もケンブリッジに戻って共同研究者になった。

湯飛凡とジョゼフ・ニーダム、昆明にて(1944年)
ジョゼフ・ニーダムWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

一冊では終わらなかった。1954年、ケンブリッジ大学出版局から第1巻の序論が出た。以後、科学思想の歴史、数学と天文学、地理学、物理学、機械工学、土木工学、航海術、紙と印刷、火薬、錬金術と化学、植物学、農業、医学と、巻を重ね、それぞれの巻が何冊にも分かれていった。磁石の羅針盤(羅針盤が海に出る)や活字印刷(宋の活字と羅針盤)、紙(蔡倫の製紙法)など、中国で生まれた発明が、いつ、どのようにして西方へ伝わったのかも、一つ一つ史料に当たって論じられている。

その中で、彼は中国の史料が語る科学者たちを西洋の読者に紹介した。11世紀の沈括が『夢渓筆談』(『夢渓筆談』)に書いた磁針の偏りの観察は、その代表例の一つである。ニーダムは、ヨーロッパで近代科学が生まれる前の時代には、中国の科学技術はしばしば西洋よりも進んでいたと主張した。

『夢渓筆談』に関わる図版:Shen Kua sketch
『夢渓筆談』Wikimedia Commons Unknown 18th century artist · Public domain

ニーダムは1995年に死んだ。生前には完結せず、その後もケンブリッジのニーダム研究所が刊行を引き継いでいる。分冊を合わせると、20数冊を数える大事業になった。

その仕事の過程で、一つの問いが立てられた。これだけの蓄積がありながら、なぜ近代科学は中国で生まれず、ヨーロッパで生まれたのか。「ニーダムの問い」と呼ばれる。

ニーダム自身は、いくつかの理由を挙げた。科挙で選ばれた官僚が国を治める仕組みのもとで、商人が力を持てず、技術を競い合わせる力が育たなかったこと。そして、万物の上に立つ立法者としての神を持たなかった中国では、自然を「法則」に従うものとして捉える考え方が生まれにくかったこと。

その答えに納得しない研究者は多い。問いの立て方そのものがおかしい、という批判もある。近代科学がヨーロッパで生まれたことのほうが特別な偶然であり、なぜ中国でそうならなかったかを問うのは、ヨーロッパを基準にした見方だ、というものだ。それでも、問いのほうは答えより長く生きている。

この本は、西洋の外の世界にも科学の歴史があることを、膨大な証拠で示した。それ以前、科学史はほとんどギリシアからルネサンスのヨーロッパへの一本道として書かれていた。ニーダムのあと、イスラーム世界やインドの科学の歴史を書く仕事が次々に続く。中国では、彼は中国文明の価値を世界に知らせた恩人として、いまも敬われている。

出典(1)

ジョゼフ・ニーダム(東畑精一、藪内清 監修) 『中国の科学と文明』全篇

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