『光学の書』

概要
目から光が出るという古代以来の説を、暗い部屋と小さな穴を使った実験で退けた。主張を実験で確かめるという手続きが方法として書かれている。
場所
30.04°N 31.24°E · エジプト
関わった人(1)
イブン・アル=ハイサムAD965年–AD1040年頃 · 著者本文
人はなぜものが見えるのか。古代ギリシアでは、大きく二つの考えがあった。一つは、目から光線のようなものが出て対象に届くから見えるという説で、幾何学者のエウクレイデスや天文学者のプトレマイオスがこれをとった。もう一つは、対象から何かが目に入ってくるという説で、アリストテレスや原子論者がこれに近い考えを持っていた。目から出る光線という考えは、遠近や角度を幾何学で扱いやすく、千年以上にわたって有力だった。
イブン・アル=ハイサムは、965年ごろイラクのバスラに生まれた。ヨーロッパではラテン語名のアルハゼンで知られる。のちにエジプトへ移り、ファーティマ朝の成立で生まれた王朝の都カイロで暮らした。『光学の書』は、1011年から1021年ごろにかけて書かれたとされる7巻の大著である。

イブン・アル=ハイサムは、見えることを光の働きとして説明し直した。光は、明るい物体のあらゆる点から、あらゆる方向へまっすぐに進む。その光が目に入ることで、ものが見える。目から出るものを考える必要はない。根拠の一つとして挙げたのが、太陽のような強い光を見つめると目が痛み、目を閉じてもしばらく残像が残ることだった。外から入ってくる光が目に作用している証拠だと考えた。
難しいのは、対象のあらゆる点から光が目に入るなら、像が混ざり合ってぼやけるはずだという点だった。彼は、目の表面にまっすぐ当たる光だけが曲げられずに奥へ届き、点と点が一対一に対応して像を結ぶと考えた。目の構造については、ガレノスの医学で知られるガレノスら古代の医学の知識を使っている。この説明はのちに修正されるが、光と目の働きを幾何学と解剖学の両方で説明しようとした点が新しかった。

光がまっすぐ進むことを示すために、暗い部屋を使った。壁に小さな穴を開け、外にいくつかの灯りを並べると、部屋の中の壁に灯りの数だけ光の点が映る。灯りの一つを覆うと、それに対応する点だけが消える。光は混ざり合わず、それぞれの源からまっすぐ進んでいる。この暗い部屋の仕組みは、のちに「カメラ・オブスクラ(暗い部屋)」と呼ばれ、写真機の祖先になる。
この書物が重んじられているのは、結論の正しさだけではない。主張を確かめる手続きが書かれている点である。管や板、鏡などの器具を作り、条件を一つずつ変えて、光の反射と屈折を確かめた。古い権威の説も、自分の実験と照らして合わなければ退けた。別の著作『プトレマイオスへの疑問』では、尊敬する学者の書いたものでも、誤りを探しながら読むべきだと説いている。月が地平線の近くでは大きく見える錯覚についても、目と心の働きから説明を試みた。

イブン・アル=ハイサムの生涯には、伝説めいた話が伝わる。ナイル川の洪水を堰で調節できると唱えたところ、ファーティマ朝のカリフ、ハーキムに呼ばれて工事を命じられた。現地を見て不可能だと悟った彼は、怒りを恐れて狂気を装い、カリフが死ぬ1021年まで家に閉じ込められた。その間に『光学の書』を書いたという。ただし、この話は後の時代の伝記作家が記したもので、どこまで事実かは分からない。
『光学の書』は12世紀の終わりから13世紀の初めにラテン語に訳され、ヨーロッパの学者に広く読まれた。13世紀のイングランドのロジャー・ベーコンやポーランドのウィテロは、これをもとに光学の書物を書いた。1572年にはバーゼルで印刷され、17世紀の初めにはヨハネス・ケプラーがその流れを受け継いで、目の奥の網膜に像が逆さに映ることを示した。光学は、のちにニュートンのプリズムの実験(ニュートンのプリズム)へと続いていく。
2015年、国連は「国際光年」を定め、『光学の書』の成立からおよそ千年を記念する行事を行った。実験で確かめることを学問の方法とする考え方は、ヨーロッパの近代に突然生まれたのではなく、カイロでの仕事がその長い道の途中にあった。