エドワード・ジェンナー
概要
牛痘を使う種痘を確かめた。人類が病を根絶できると初めて示す。
関わったできごと(1)
ジェンナーの種痘AD1796年 · 当人本文
エドワード・ジェンナーは1749年5月、イングランド西部グロスターシャーの村バークリーで、教区の牧師の子として生まれた。5歳で両親を亡くし、兄に育てられた。8歳頃、当時の天然痘の予防法だった人痘接種を受けている(人痘接種)。天然痘の患者の膿を健康な人に植えて軽くかからせる方法で、接種の前には何週間も絶食や瀉血をさせられた。この苦しい体験を、彼は生涯忘れなかったという。

13歳から近くの町の外科医のもとで徒弟として働き、1770年にはロンドンへ出て、当代きっての外科医で解剖学者のジョン・ハンターの弟子になった。ハンターは、推測するより実験せよ、とジェンナーに説いた。ハンターの推薦で、ジェームズ・クックの第1回航海から持ち帰られた動植物の標本の整理を手伝い、次の航海への同行を誘われたが、断ったといわれる。1773年、故郷に戻って開業医になった。
田舎医者になってからも、ジェンナーは観察と実験を続けた。カッコウのひなが、仮親の巣からほかの卵やひなを背中で押し出すことを確かめた研究で、1789年に王立協会の会員に選ばれている。気球を作って飛ばしたこともある。

彼の住む酪農地帯には、牛の乳房にできる牛痘という軽い病に、乳しぼりの仕事で感染した人は、天然痘にかからない、という言い伝えがあった。同じことに気づいて、自分の家族に牛痘を植えた農民もいたことが知られている。ジェンナーはこの言い伝えを、何年もかけて症例を集めて確かめようとした。
1796年5月14日、ジェンナーは、乳しぼりの女性サラ・ネルムズの手にできた牛痘の水疱から膿をとり、雇っていた庭師の息子で8歳のジェームズ・フィップスの腕に植えた(ジェンナーの種痘)。少年は軽い熱を出しただけで回復した。7月1日、ジェンナーは少年に天然痘の膿を接種した。少年は発病しなかった。健康な子どもに、命にかかわる病の膿を、わざと植えたのである。今日の倫理ではとうてい許されない実験だった。

ジェンナーはこの結果を王立協会に報告しようとしたが、症例が少なすぎるとして受け入れられなかった。彼はさらに症例を重ね、1798年、23の例をまとめた小冊子を自費で出版した。牛痘をラテン語で「牛の天然痘」と呼んだことから、のちにこの方法は牛を意味する語にちなんで種痘(ワクチネーション)と呼ばれるようになった。19世紀の終わりに、ルイ・パスツールがジェンナーをたたえて、この言葉をあらゆる予防接種に広げた(狂犬病のワクチン)。
種痘は激しい反発も受けた。牛の病を人に植えると牛になる、と描いた風刺画も出回った。だが、人痘接種より安全で、接種された人から周りに天然痘がうつる心配もないこの方法は、驚くほどの速さで広まった。数年のうちにヨーロッパ全土とアメリカに伝わり、1803年にはスペインが、牛痘を子どもたちの腕から腕へと植え継ぎながら船で運び、中南米やフィリピンに届けた。ナポレオン・ボナパルトは自国の兵に種痘を受けさせ、敵国の英国人であるジェンナーの嘆願を聞き入れて、捕虜を釈放したことがあると伝えられる。英国議会はジェンナーに、二度にわたって合わせて3万ポンドの賞金を与えた。

ジェンナー自身は特許を取らず、種痘で富を得ようとはしなかった。バークリーの自宅の庭の小屋で、貧しい人々に無料で種痘をしたという。小屋は、彼がワクチンの神殿と呼んだものとして今も残る。晩年は故郷で過ごし、1823年1月、脳卒中のため73歳で死んだ。
当時は、なぜ牛痘が天然痘を防ぐのかを説明する理論は無かった。病原体も、免疫の仕組みも知られていなかった。それでもジェンナーの方法は世界中に受け継がれ、20世紀には世界保健機関が各地で種痘を徹底して、1980年に天然痘の根絶が宣言された(天然痘の根絶宣言)。人類が根絶に成功した人の感染症は、今のところ天然痘だけである。