テラ島の噴火
概要
島の中央が吹き飛び、火山灰の下に町がそのまま残った。クレタの宮殿文明が衰える一因とされる。アトランティスの伝説の元という説がある。
場所
36.40°N 25.43°E · ギリシア
本文
エーゲ海の南、ギリシア本土とクレタ島の間に、サントリーニと呼ばれる島々がある。三日月形の大きな島と、その内側の海に浮かぶいくつかの小島からなり、内側の海は深さ数百メートルに及ぶ。この海は、もとは山だった。古代にテラと呼ばれたこの島は、ほぼ丸い形をした火山の島で、その中央が噴火で吹き飛び、海が流れ込んでいまの形になった。
噴火が起きたのは紀元前17世紀から紀元前16世紀ごろで、過去1万年の間に地球で起きた噴火の中でも最大級のものとされる。噴き上がった軽石と火山灰は数十立方キロメートルに達し、灰はエーゲ海の島々から小アジアの沿岸まで降り積もった。

いつ起きたのかは、長く論争が続いてきた。考古学者は、エジプトとの交流の跡から土器の年代を組み立て、紀元前1500年前後と考えてきた。ところが、噴火で埋もれたオリーブの枝などを炭素14で測ると、紀元前1600年前後という、100年ほど古い年代が出た。グリーンランドの氷の層に残る火山の痕跡や、木の年輪に刻まれた異常な年を手がかりにする研究も加わったが、それがテラの噴火のものかどうかで、また意見が分かれた。近年は紀元前1600年前後とする見方が有力になりつつあるが、まだ決着してはいない。年代が100年ずれると、地中海の東部の青銅器時代の歴史全体の組み立てが変わるため、この論争は一つの島の問題にとどまらない。
噴火の前、島の南岸にはにぎやかな港町があった。いまアクロティリと呼ばれるその町は、厚い火山灰の下に、ほぼそのままの形で埋もれた。1967年から考古学者スピリドン・マリナトスが本格的に掘り始め、地中海のポンペイとも呼ばれるようになる。

掘り出された町には、石を積んだ2階建て、3階建ての家が並び、通りの下には排水の溝が通っていた。家の壁は色鮮やかな壁画で飾られていた。百合の咲く岩山を燕が飛び交う春の風景、魚の束を下げた若い漁師、拳闘をする二人の少年、町から町へ航海する船団。壁画は、エーゲ海の島の人々が豊かで洗練された暮らしをしていたことを伝えている。
ところが、町からは逃げ遅れた人の骨がほとんど見つかっていない。金や銀の貴重品もわずかしか出ない。噴火の前に大きな地震があり、壊れた家を直しかけた跡もあることから、住民は前触れに気づいて、持ち物をまとめて島を離れたと考えられている。彼らがどこへ逃れ、無事だったのかは分からない。

テラの南、およそ100キロの海の向こうには、クレタ島があった。島にはクノッソスの宮殿に代表される宮殿の文明が栄え、テラの人々もその文化の強い影響の下にあった。噴火の灰はクレタ島の東部にも降り、島の北岸では津波が運んだとみられる堆積物が見つかっている。港や船、沿岸の町は大きな被害を受けただろう。
この災害がクレタの宮殿文明が衰える一因になった、という説は、マリナトスが1939年に唱えて以来、広く知られてきた。ただし、クノッソスなどの宮殿が最終的に壊され、ギリシア本土のミュケナイの人々(ミュケナイの興り)がクレタの支配者になるのは、噴火から100年以上あとのことになる。噴火が文明を一撃で滅ぼしたのではなく、交易や農業への打撃がじわじわと力を削いだのか、それとも衰えは別の理由によるのか、研究者の見方は分かれている。

テラの噴火は、プラトンが書いたアトランティスの伝説のもとになったのではないか、という説もある。プラトンは対話篇『ティマイオス』と『クリティアス』で、海の向こうにあった強大な島国が、一昼夜のうちに海に沈んだと語った。栄えた島の文明が海の災害で失われた、という筋は、テラやクレタの運命に似ている。だが、プラトンはその出来事を自分の時代の9000年前とし、場所も地中海の外に置いている。テラの記憶が形を変えて伝わったという証拠は無く、プラトンが哲学を語るために作った寓話と見る研究者が多い。
テラの火山は、今も眠ってはいない。噴火で生まれた内海の中央には、その後の噴火で新しい島が育ち、20世紀にも1950年に小さな噴火があった。崖の上に白い家が並ぶいまの美しいサントリーニの景色は、3600年ほど前の大噴火が削り出したものだ。