人物

エイダ・ラブレス

Ada Lovelace
AD1815年12月10日 – AD1852年11月27日(享年36)
イギリス重要度 4

概要

バベッジの解析機関の解説に、機械に計算させる手順を書き加えた。数を扱う機械が数以外のものも扱えると、100年早く書いている。

関わったできごと(2)

バベッジの階差機関と解析機関AD1837年 · 注釈を書いたエイダ・ラヴレスの覚え書きAD1843年 · 書いた

本文

1815年12月10日、ロンドンに生まれた。父は詩人バイロン、母は数学を好んだ貴族の娘アナベラ。結婚は1年ほどで破綻し、生後1か月あまりで母は娘を連れて家を出た。バイロンはまもなくイギリスを去り、娘が8歳のとき、ギリシア独立戦争に加わった先で病死した。エイダは父に一度も会っていない。

エイダ・ラブレス
エイダ・ラブレスWikimedia Commons Margaret Sarah Carpenter · Public domain

母は、娘が父のような激しい気性や詩人の想像力を受け継ぐことを恐れた。そこで、心を鍛えるものとして数学と科学を徹底的に学ばせた。家庭教師には数学者や、女性の科学者として知られたメアリー・サマヴィルらが付いた。子ども時代は病気がちで、はしかの後、長く寝たきりになった時期もある。12歳のころには、鳥の体を調べて空を飛ぶ機械を設計しようとしていた。

17歳のとき、社交界の集まりで数学者チャールズ・バベッジと知り合った。バベッジの家で、計算を自動で行う階差機関の試作品を見せられた。多くの客が珍しい玩具として眺める中で、その仕組みを理解しようとした数少ない一人だったとされる。二人の交流はこのときから続いた。

1840年ごろの肖像画、(作)アルフレッド・エドワード・シャロン
1840年ごろの肖像画、(作)アルフレッド・エドワード・シャロンWikimedia Commons Alfred Edward Chalon · Public domain

1835年、ウィリアム・キングと結婚した。夫はのちにラブレス伯となり、エイダはラブレス伯爵夫人と呼ばれる。3人の子を産み、育てながら、数学者ド・モルガンについて学び続けた。

バベッジはその後、階差機関よりはるかに大きな構想、解析機関に取り組んでいた(バベッジの階差機関と解析機関)。穴のあいたカードで手順を与え、数を蓄える部分と計算する部分を分けた、いまのコンピューターに通じる設計である。1842年、イタリアの技術者メナブレアが、バベッジの講演をもとにこの機械を紹介する論文をフランス語で書いた。エイダはその英訳を頼まれ、訳に「注」を付けた。注はAからGまで7つあり、本文の3倍ほどの長さになった。1843年、署名は頭文字だけで出版された。

アントワーヌ・クロード(英語版)による銀板写真。1843年または1850年の写真とされる。
アントワーヌ・クロード(英語版)による銀板写真。1843年または1850年の写真とされる。Wikimedia Commons Antoine Claudet · Public domain

最後の注Gには、ベルヌーイ数と呼ばれる数の列を解析機関に計算させる手順が、表の形で書かれている。同じ操作を繰り返し、条件によって進み方を変える。このため、世界で最初のコンピューターのプログラムと呼ばれることが多い。ただし、手順の多くはバベッジが先に考えていたとする研究者もいて、どこまでが彼女の独創かについては議論がある。

それよりも後の人を驚かせたのは、機械の可能性についての見通しだった。数を扱う機械は、記号の関係として表せるものなら、数以外のものも扱える。たとえば音の高さの関係を表せれば、精巧な曲を作れるかもしれない、と書いた。解析機関は、ジャカード織機が花や葉を織るように、代数の模様を織るのだ、とも書いている。

エイダ・ラブレスのダゲレオタイプ(アントワーヌ・クローデ撮影、1843年)
エイダ・ラブレスのダゲレオタイプ(アントワーヌ・クローデ撮影、1843年)Wikimedia Commons Antoine Claudet · Public domain

同時に、限界も書いた。解析機関は何かを生み出すことはできない、命じ方を知っていることなら何でもする、と。100年あまり後、アラン・チューリングは機械が考えることができるかを論じた論文で、この一節を「ラブレス夫人の反論」として取り上げた。いまも人工知能の議論で引かれる。

その後は思うようにいかなかった。体調はすぐれず、痛み止めにアヘンを用いた。1840年代の終わりには競馬の賭けにのめり込み、大きな借金を抱えた。数学を使って勝ち方を見つけようとしていたともいわれるが、確かなことは分からない。

4歳の頃のエイダ・バイロン(エイダ・ラブレス)
4歳の頃のエイダ・バイロン(エイダ・ラブレス)Wikimedia Commons Unknown (John Murray Publishers London) · Public domain

1852年、子宮のがんと診断され、激しい痛みの中で数か月を過ごした。11月27日に亡くなった。36歳。会ったことのない父バイロンと同じ年齢だった。本人の望みで、ノッティンガム近くの教会で、父の隣に葬られた。

解析機関は完成せず、彼女の注も長く忘れられていた。20世紀になって電子計算機が作られると、改めて読まれるようになった。1980年、アメリカ国防総省が定めたプログラミング言語は「エイダ」と名付けられた。毎年10月には、科学や技術の分野で働く女性を称える「エイダ・ラブレスの日」が設けられている。

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