人物

ガレノス

Galen
AD129年 – AD216年頃(享年87・推定)
ローマ重要度 4

概要

ペルガモンの剣闘士の医者から、皇帝の侍医へ。猿と豚の解剖で人体を論じ、その誤りごと1500年の権威になった。

所属

ローマ

関わったできごと(1)

ガレノスの医学AD169年(皇帝の侍医になる) · 皇帝の侍医

本文

129年、小アジアのペルガモンに生まれた。かつてペルガモン王国の都として栄えた学問の町で、医術の神アスクレピオスの大きな聖域があり、病人が各地から集まっていた。父ニコンは裕福な建築家で、数学や哲学を息子に教えた。ガレノスは後に、父は穏やかで公正な人だったが、母は召使いに噛みつくほど気性が荒かった、と書いている。

ガレノス ピエール・ロッシュ・ヴィニュロンPierre Roche Vigneronによるリトグラフ(1865年、パリ)
ガレノス ピエール・ロッシュ・ヴィニュロンPierre Roche Vigneronによるリトグラフ(1865年、パリ)Wikimedia Commons Pierre-Roch Vigneron · Public domain

16歳のころ、父の夢にアスクレピオスが現れ、息子に医学を学ばせよと告げた。そこで哲学から医学へ進んだと、ガレノス自身が書いている。父が亡くなって財産を継ぐと、スミュルナ、コリントスを経て、医学の中心だったエジプトのアレクサンドリアまで学びに行った。かつてそこでは人の体の解剖が行われていたが、ガレノスの時代にはもう許されていなかった。それでも人の骨格を見る機会はあり、後に役立ったと書いている。

157年頃にペルガモンへ戻り、町の神官が催す剣闘士の興行で、剣闘士たちの医者になった。傷を負った剣闘士を手当てすることは、生きた体の内側を見る機会でもあった。4年ほどの間に、自分が担当してから死んだ剣闘士は数人しかいなかったと本人は誇っている。前任者のときには60人が死んだという。

ガレノスの著作に擬せられる『テリアカの書』(Kitāb al-Diryāq)。12世紀末の写本。
ガレノスの著作に擬せられる『テリアカの書』(Kitāb al-Diryāq)。12世紀末の写本。Wikimedia Commons Meister des Buches der Gegengifte (I) · Public domain

162年頃、ローマへ出た。腕は確かだったが、論争好きで、人を見下す物言いが多く、ほかの医者たちの反感を買った。名を上げたのは、公開の解剖の実演だった。生きた豚の喉の神経を一本ずつ縛ってみせ、ある神経を縛ると豚が鳴き声を出せなくなることを示した。声は心臓ではなく脳から出る命令で生まれる、という主張の証拠だった。

166年、突然ローマを去って故郷へ帰った。同じころ、東方から戻った軍とともに疫病が広がり始めていた(アントニヌスの疫病)。疫病を避けたのだとも、敵の多さに嫌気が差したのだとも言われる。まもなく皇帝マルクス・アウレリウスに呼び戻され、北方の戦線にいた皇帝のもとへ赴いた。疫病については、黒い発疹や熱の様子を書き残しており、天然痘だったとする説の手がかりになっている。

アントニヌスの疫病に関わる図版:Aurelius180AD
アントニヌスの疫病Wikimedia Commons Tataryn77 · CC0

やがて皇帝の侍医としてローマの宮廷に仕え、皇帝の息子コンモドゥスの健康も見守った。マルクス・アウレリウスは、ガレノスを「医者の第一人者、哲学者のただ一人」と呼んだと、本人が書いている。自慢の多い人なので、どこまでそのままかは分からない。

書いたものは膨大で、残っているものだけでも古代ギリシア語の文献の中で群を抜く量になる。解剖、生理、病気の原因、薬、診断、治療、そして論理学や倫理学にまで及ぶ。『最良の医者は哲学者でもある』という題の小品もある。192年の大火で、平和の神殿に預けていた蔵書や薬の原稿が焼けた。そのとき失ったものを書いた手紙が、2005年にギリシアの修道院の写本から見つかっている。

ガレノスの肖像
ガレノスの肖像Wikimedia Commons Georg Paul Busch (engraver) · Public domain

医学の土台に置いたのは、古代ギリシアのヒポクラテス以来の、四つの体液の釣り合いで健康と病を説く考えだった。ガレノスはそれを解剖と実験で裏づけようとした。動脈の中には空気ではなく血が流れていることを、実験で示したのもこの人である。脈をとる方法についても詳しく論じた(ガレノスの医学)。

人の体は解剖できなかった。そこで、体の作りが人に近いとされたバーバリーマカクという猿や、豚、牛で代用した。その結果、人には無い骨の形や血管の網を、人にもあるものとして書いた。血は肝臓で作られ、心臓の真ん中の壁にある見えない穴を通って左右を行き来する、という説も唱えた。この誤りが、その権威ごと長く伝わることになる。

猿を解剖するガレノス、ヴェロゾ・サルガド画(1906年)
猿を解剖するガレノス、ヴェロゾ・サルガド画(1906年)Wikimedia Commons Veloso Salgado · Public domain

亡くなったのは216年頃とされるが、もっと早く200年頃とする説もある。87歳前後か、70歳前後かということになる。

死後、その著作はビザンツの医学で教科書となり、9世紀のバグダードでは翻訳者たちがアラビア語に訳した。ラーズィーは『ガレノスへの疑問』を書いて誤りを指摘し、イブン・スィーナーは彼の医学を体系にまとめた。中世ヨーロッパはそれをラテン語で受け取り直した。16世紀にアンドレアス・ヴェサリウスが人の体を自ら解剖して猿との違いを示し、17世紀にウィリアム・ハーヴェイが血の流れを明らかにするまで、医学は「ガレノスによれば」で語られた。誤りが長く残ったのは、ガレノスが観察と実験で医学を組み立てるという手本を示しすぎたからでもある。その手本に従った人々が、最後には彼を乗り越えた。

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