ドミトリ・メンデレーエフ
概要
元素を重さの順に並べると性質が周期的に戻ることに気づき、表の空欄に「まだ見つかっていない元素」の重さと性質を書いた。数年で三つとも見つかる。
所属
ロシア帝国関わったできごと(1)
周期表AD1869年 · 作成本文
1834年、シベリアの町トボリスクに生まれた。きょうだいの末っ子で、その数は14人とも17人ともいわれ、記録が一致しない。父イヴァンは町のギムナジウムの校長だったが、生まれた年に目を患って失明し、職を退いた。一家の暮らしを支えたのは母マリヤである。母は実家が持っていた近くのガラス工場の経営を引き受け、大家族を養った。

1847年に父が死に、翌年にはガラス工場が火事で焼けた。母は残った財産をまとめ、末の息子に教育を受けさせようと決めた。15歳のドミトリを連れ、馬車でシベリアからモスクワへ向かった。数千キロの旅である。だがモスクワ大学は、シベリアの出身者を受け入れなかった。母はさらにペテルブルクまで行き、父の旧友の助けで、息子を教師を養成する中央教育大学に入れた。1850年のことで、その年のうちに母は死んだ。メンデレーエフはのちに、研究書の一つを母の思い出に捧げている。
学生時代は体が弱く、結核と診断されて長くは生きられないと言われた。卒業後は気候のよいクリミアやオデッサで教師を務めた。結核の診断は誤りだったらしく、彼は健康を取り戻してペテルブルクへ戻った。1859年からドイツのハイデルベルクに留学し、自前の実験室で研究した。1860年にはカールスルーエで開かれた最初の国際化学者会議に出席し、イタリアの化学者カニッツァーロが、原子量を正しく定める方法を説くのを聞いた。元素の重さをそろった基準で比べられるようになったことが、のちの発見の前提になる。

帰国してペテルブルク大学の教授になると、学生のための化学の教科書を書き始めた。当時知られていた元素は63。それをどういう順で説明するか。彼は元素の名前と原子量、性質を一枚ずつカードに書き、トランプの一人遊びのように並べ替えて考えたと伝えられる。夢の中で完成した表を見た、という有名な話は、後年の本人の談話として伝わるもので、そのまま信じてよいかは分からない。
1869年、彼は「元素の体系の試案」と題する表を発表した(周期表)。元素を原子量の順に並べると、似た性質を持つ元素が一定の間隔で現れる。リチウム、ナトリウム、カリウム。フッ素、塩素、臭素。その周期に合わせて並べると、ところどころに収まりの悪い場所ができた。

彼の大胆さは、そこに無理に既知の元素を押し込まず、空欄を残したことにある。そして空欄には、まだ見つかっていない元素が入るはずだと考え、その原子量や密度、化合物の性質まで予言した。アルミニウムの下に入る「エカアルミニウム」、ホウ素の下の「エカホウ素」、ケイ素の下の「エカケイ素」である。また、原子量の順ではテルルがヨウ素より重いのに、性質に従ってテルルを先に置いた。原子量の測定のほうが間違っているはずだ、と考えたのである。
1875年、フランスのボアボードランが新しい元素ガリウムを見つけた。エカアルミニウムだった。メンデレーエフは、発表された密度は自分の予言と違う、試料の精製が足りないのではないかと手紙を書いた。測り直すと、予言どおりの値が出た。1879年にはスカンジウム、1886年にはゲルマニウムが見つかり、どちらも予言とよく一致した。発表から17年で、三つとも埋まったことになる。周期表は、物質の世界に隠れた秩序があることを示す道具として認められた。

同じころ、ドイツのロータル・マイヤーも、よく似た表を独立に作っていた。先を争う論争も起きたが、未発見の元素を具体的に予言したのはメンデレーエフだった。それが二人の評価を分けた。
外したこともある。なぜ性質が周期的に戻るのか、その理由を彼は知らなかった。表の本当の順序が原子量ではなく原子核の電荷、つまり原子番号だと分かるのは、彼の死後のことである。1890年代に希ガスのアルゴンやヘリウムが見つかったとき、彼は最初、新しい元素だと認めることをためらった。のちに表に新しい列を加えて受け入れている。光を伝える「エーテル」を最も軽い元素として表に入れようとしたこともあった。

研究室の外でも活動した。石油の産業化を説き、関税制度を研究し、度量衡局の長官としてロシアの単位制度を整えた。1887年には、皆既日食を観測するため気球に乗り、操縦士抜きで一人で空へ上がった。髪とひげは年に一度しか切らなかったと伝えられる。最初の妻と別れて若い画学生と再婚したときは、離婚後しばらく再婚を禁じる教会の定めに反していたため、重婚だと騒がれた。
1880年、ロシア科学アカデミーの会員の選挙で落選した。外国生まれの学者が多いアカデミーの派閥争いが理由だとされ、ロシアの新聞は彼をかばってアカデミーを非難した。ノーベル化学賞の候補にも挙がったが、受けていない。1907年2月2日、ペテルブルクで死んだ。72歳だった。

1955年に作られた101番目の元素は、彼にちなんでメンデレビウムと名づけられた。アントワーヌ・ラヴォアジエが元素の一覧を作り、ドルトンの原子論が原子の重さという考えを持ち込んでから、その一覧に秩序を与えたのが彼だった。いまも世界中の教室の壁に貼られている表は、彼の空欄から始まっている。