概要
トゥールーズの高等法院の法律家。数学は余暇の仕事で、論文をほとんど発表せず、友人への手紙で結果だけを告げた。パスカルとの往復書簡で確率論を作り、光の進み方を最短時間の原理で説明し、微分の先駆となる方法を編み出した。ディオファントスの本の余白に「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白は狭すぎる」と書き残した。この一行が、以後358年間、数学者を悩ませた。
関わったできごと(1)
確率論のはじまりAD1654年 · 手紙を交わした本文
1607年頃、フランス南西部ボーモン=ド=ロマーニュ生まれ(洗礼の記録は1607年8月20日。長く1601年生まれとされていたが、それは早世した同名の異母兄の記録だった)。
父ドミニクは裕福な皮革商人で、第二執政。母は法服貴族の家系。
トゥールーズ、そしてボルドーとオルレアンで法律を学び、1631年、**トゥールーズ高等法院**の請願審査官になった。同じ年、ルイーズ・ド・ロンと結婚。5人の子。
1638年、刑事部の判事。1652年、最高の地位(最上級刑事部)へ。
**職業は、法律家である**。数学は、余暇の仕事だった。
高等法院の判事は、社交を避けることが求められた。判決を左右されないためである。だから、彼の余暇は多かった。
(同時代のある報告。「彼は判決文の起草にはあまり熱心でなく、しばしば数学の問題を考えていた」。)
**発表しない人**。
彼は、生前、数学の著作をほとんど出版しなかった。
彼のやり方は、こうである。友人(メルセンヌ、パスカル、ロベルヴァル、カルカヴィ、ホイヘンス、そしてイギリスのウォリスとディグビー)に手紙を書き、**結果だけを述べ、しばしば「証明はある」と書き添えて、証明は書かない**。
そして、相手に挑戦する。「これを証明してみられよ」。
デカルトとは、光の屈折と接線の方法をめぐって激しく対立した(デカルトは彼を「ガスコーニュの法螺吹き」と呼んだ)。
**業績**。
**(1)解析幾何**。デカルトの『幾何学』(1637年)に先立って、彼は座標を使って曲線を方程式で表す方法を書いていた(『平面および立体の軌跡入門』、1636年頃に回覧、出版は1679年)。デカルトと独立で、ある面ではより明快だった。
**(2)微分の先駆**。「**極大と極小を求める方法**」(1636年頃)。関数の値が極値をとる点では、わずかに動かしても値がほとんど変わらない。この原理から、接線と極値を求める代数的な手順を作った。ニュートンとライプニッツの半世紀前である。ニュートンは後に「私はフェルマーの接線の方法から、微分法の示唆を得た」と書いている。
**(3)確率論**。1654年、パスカルとの往復書簡。分配問題を、場合の数え上げで解いた。
**(4)フェルマーの原理**。光は、二点の間を、**最短時間**で進む経路を通る。これで屈折の法則(スネルの法則)が導ける。物理学における「変分原理」——自然はある量を極値にするように振る舞う——の最初の例。後の最小作用の原理、そしてラグランジュとハミルトンの力学へつながる。
**(5)整数論**。ここが、彼の本領である。
彼は、ディオファントスの『算術』(バシェのラテン語訳、1621年)を手に入れ、その余白に書き込みを続けた。
- **フェルマーの小定理**。p が素数なら、a^p − a は p で割り切れる。(証明は書かなかった。オイラーが1736年に証明。) - **二平方定理**。4で割って1余る素数は、必ず二つの平方数の和で表せる(13 = 4+9)。(オイラーが1749年に証明。7年かかった。) - **フェルマー数**。2^(2^n)+1 はすべて素数だ、と彼は予想した。n=0〜4は素数。**n=5 で、オイラーが合成数であることを示した**(1732年)。彼の数少ない誤りの一つ。 - **無限降下法**。ある解が存在すると仮定すると、より小さい解が作れ、それが無限に続くので矛盾する、という証明の技法。彼の発明。
**(6)そして、余白**。
『算術』第2巻第8問(平方数を二つの平方数の和に分ける)の余白に、彼はこう書いた。
「立方数を二つの立方数の和に、四乗数を二つの四乗数の和に、一般に、二乗より大きいべき乗数を、同じべきの二つの数の和に分けることは、不可能である。
**私は、この命題の真に驚くべき証明を見つけた。しかし、この余白は、それを書くには狭すぎる**」。
x^n + y^n = z^n (n ≥ 3)に、正の整数解はない。
彼は、この書き込みを誰にも知らせなかった。手紙にも書いていない(n=4 の場合だけは、別の場所で無限降下法を使って証明している)。
彼の死後、息子**クレマン=サミュエル**が、父の書き込みを含む『算術』の新版を出した(1670年)。
以後、この一行が、**358年**、数学者を悩ませた。
オイラー(n=3)、ソフィ・ジェルマン、ディリクレとルジャンドル(n=5)、ラメ(n=7)、クンマー(多くの場合を一挙に処理する理論を作り、その過程で「イデアル」の概念が生まれた)。
多くの誤った証明が発表された。1908年、ドイツのヴォルフスケールが賞金10万マルクを設定し、以後、アカデミーには膨大な誤答が送られ続けた。
**1995年**、**アンドリュー・ワイルズ**が、リチャード・テイラーの協力を得て、証明を完成させた。
方法は、楕円曲線とモジュラー形式を結びつける谷山=志村予想(の半安定な場合)を証明することによる。20世紀の数学の巨大な装置を使う、100ページを超える論文である。
**フェルマー自身が持っていた証明はあったのか**。
ほぼ確実に、無い。彼は後年、n=3 と n=4 の場合を個別に論じている。一般の場合の証明を持っていたなら、そんなことはしない。
彼は若い頃に、誤った証明を思いつき、余白に書き、そして後に自分で誤りに気づいて、その書き込みを消し忘れた——というのが、多くの数学史家の見方である。
**1665年1月12日**、カストルで、裁判の職務中に死んだ。57歳。
トゥールーズに、彼の像がある。