人物

ピエール・ド・フェルマー

Pierre de Fermat
AD1607年頃 – AD1665年1月12日(享年58・推定)
フランス重要度 4

概要

トゥールーズの高等法院の法律家。数学は余暇の仕事で、論文をほとんど発表せず、友人への手紙で結果だけを告げた。パスカルとの往復書簡で確率論を作り、光の進み方を最短時間の原理で説明し、微分の先駆となる方法を編み出した。ディオファントスの本の余白に「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白は狭すぎる」と書き残した。この一行が、以後358年間、数学者を悩ませた。

関わったできごと(1)

確率論のはじまりAD1654年 · 手紙を交わした

本文

ピエール・ド・フェルマーは1607年ごろ、フランス南西部の町ボーモン=ド=ロマーニュに生まれた。長く1601年生まれとされてきたが、それは幼くして死んだ同じ名の兄の記録で、本人の洗礼は1607年8月とみられている。父ドミニクは裕福な皮革商人で、町の役職にも就いていた。母は法律家の家系の出である。

ピエール・ド・フェルマーの肖像(ロラン・ルフェーブル画、17世紀)
ピエール・ド・フェルマーの肖像(ロラン・ルフェーブル画、17世紀)Wikimedia Commons Rolland Lefebvre · Public domain

オルレアンなどで法律を学び、1631年、トゥールーズの高等法院の役職を得た。同じ年に結婚し、5人の子をもうけた。のちには刑事の裁判を扱う部の判事になり、高い地位に上っていった。本業はあくまで法律家で、数学は余暇の仕事だった。高等法院の判事は、判決が人間関係に左右されないよう、社交を控えることが求められた。そのぶん、彼には考える時間があった。

フェルマーは、生前ほとんど数学の本を出さなかった。彼のやり方は、パリの修道士メルセンヌを中心とする学者たちのつながりに手紙を書き、結果だけを告げることだった。証明はあると書き添えても、中身はしばしば示さない。そして、これを証明してみられよ、と相手に挑む。ルネ・デカルトとは、光の屈折や曲線の接線の求め方をめぐって激しく言い争い、デカルトは彼を、ほら吹きのガスコーニュ人と呼んだと伝えられる。

それでも、手紙で伝えられた彼の仕事は、17世紀の数学の地図を塗り替えた。一つは、座標を使って曲線を式で表す方法である。デカルトが『方法序説』(デカルト『方法序説』)の付録『幾何学』を出した1637年より前から、フェルマーは同じ考えを書いて仲間に回していた。二人は互いに独立に、図形と代数を結びつけたのである。

デカルト『方法序説』に関わる図版:Descartes Discours de la Methode
デカルト『方法序説』Wikimedia Commons Ian Maire · Public domain

二つ目は、曲線の接線や、値がいちばん大きく、あるいは小さくなる点を求める方法だった。値が頂点にあるところでは、少し動かしても値はほとんど変わらない。この見方から、彼は代数の手順で接線と極値を求めた。アイザック・ニュートンとゴットフリート・ライプニッツが微積分を形にする半世紀前のことで、ニュートンはフェルマーの接線の方法から手がかりを得たと書いたと伝えられる。

三つ目は確率である。1654年、ブレーズ・パスカルとの手紙のやりとりの中で、途中でやめた賭けの賭け金をどう分けるかという問題を、起こりうる場合を数え上げて解いた(確率論のはじまり)。偶然を数で扱う学問は、二人の往復書簡から始まったとされる。

ディオファントス『算術』1670年版。息子が死後出版したフェルマーの注釈「最後の定理」を含む
ディオファントス『算術』1670年版。息子が死後出版したフェルマーの注釈「最後の定理」を含むWikimedia Commons Public domain

四つ目は光である。光は二つの点のあいだを、かかる時間がいちばん短くなる道筋を通って進む。この考えから、光が水やガラスに入るときに折れ曲がる規則を導いた。自然はある量を最小にするように振る舞う、という考え方の最初の例の一つで、のちの物理学の大きな原理へとつながっていく。

けれども、フェルマーが最も愛したのは整数の世界だった。古代ギリシアのディオファントスの『算術』のラテン語訳を手に入れ、その余白に書き込みを重ねた。素数をめぐるいくつもの定理を見つけた。たとえば、4で割って1余る素数は、必ず二つの平方数の和で表せる(13は4と9の和、29は4と25の和)。彼は証明を示さず、それをきちんと証明したのは百年あまりのちのオイラーだった。彼はまた、ある数が解を持つと仮定すると、より小さい解が作れ、それが果てしなく続くので矛盾する、という証明の技法を編み出した。ただ、すべての予想が当たったわけではない。ある形の数はすべて素数になると予想したが、のちに数学者オイラーが反例を見つけている。整数の性質をここまで深く問う人は、ピサのレオナルド(レオナルド・フィボナッチ)以来、ヨーロッパにはほとんどいなかった。

ピエール・ド・フェルマーの墓碑
ピエール・ド・フェルマーの墓碑Wikimedia Commons Gciriani at French Wikipedia · Public domain

その余白の一つに、彼は有名な一行を残した。ある数の3乗を二つの数の3乗の和に分けることはできない。4乗でも、それより大きいべき乗でも同じである。自分はこの命題の真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる、と。整数を2乗するなら、3の2乗と4の2乗の和が5の2乗になるように、答えはいくらでもある。ところが3乗以上では一つもない、というのである。

1665年1月12日、フェルマーは裁判の務めで訪れていた町カストルで死んだ。57歳だった。5年後、息子が父の書き込みを添えて『算術』を出し直し、この一行が世に知られた。

トゥールーズ市議会議事堂アンリ=マルタン室のフェルマー胸像
トゥールーズ市議会議事堂アンリ=マルタン室のフェルマー胸像Wikimedia Commons Didier Descouens · Public domain

それから、数学者たちの長い挑戦が始まった。オイラーが3乗の場合を、19世紀の数学者たちが5乗や7乗の場合を解き、ドイツのクンマーは多くの場合をまとめて扱う理論を作って、その過程で新しい数の考え方を生み出した。誤った証明も山のように発表され、1908年にドイツで多額の懸賞金がかけられると、学士院には素人の誤った答えが絶えず送られてきた。

証明を完成させたのは、イギリスのアンドリュー・ワイルズだった。1994年、弟子のリチャード・テイラーの助けを得て、日本の谷山豊と志村五郎に始まる予想の一部を証明することで、問題を解いたのである。論文は1995年に発表された。余白の一行から、およそ360年がたっていた。20世紀の数学の巨大な道具立てを駆使した証明で、もちろん余白に収まるものではない。

ピエール・ド・フェルマーの遺言書
ピエール・ド・フェルマーの遺言書Wikimedia Commons Public domain

フェルマー自身は、本当に証明を持っていたのだろうか。多くの数学史家は、持っていなかったと考えている。彼は後年、3乗や4乗の場合を個別に論じていて、一般の証明を持っていたなら、そうする必要はなかったはずだからである。若いころに誤った証明を思いつき、余白に書き、のちに誤りに気づいたものの、書き込みを消さなかったのだろう、と見る人が多い。

動画(1)

【フェルマーの最終定理】数学界最大の難問に挑んだ人類の壮絶な物語【Update版】中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITYフェルマーの最終定理が解かれるまでの約350年を追う
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