できごと

ハリソンの航海時計

Harrison's marine chronometer
AD1761年
重要度 5
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国大英帝国ネーデルラント連邦共和国ポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国エジプトオーストリア帝国フランス王国スペインモロッコAlgiersイギリスアイルランド王国TunisBrandenburgヴェネツィア共和国NaplesTripolitaniaCyrenaicaプロイセンAD1761年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1761年の版図を描いています(25勢力)。

概要

ヨークシャーに生まれリンカンシャーで育った大工の子で、独学の時計職人ジョン・ハリソンが、31年かけて4台を作った。H1からH3は大きな機械。H4は直径13センチの懐中時計だった。1761年、ジャマイカまでの81日の航海で、遅れは5秒。経度にして誤差は数キロ。委員会は賞金を渋り、条件を足し続けた。1773年、80歳の彼は国王ジョージ3世の口添えで、ようやく相当額を受け取った。賞金そのものは、誰にも与えられなかった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

ジョン・ハリソンAD1693年4月3日–AD1776年3月24日 · 作った

本文

海の上で、いま自分がどこにいるのか。緯度は、正午の太陽や北極星の高さを測れば分かる。分からなかったのは経度、つまり東西の位置だった。経度を知るには、船のいる場所の時刻と、出港地(基準の地点)の時刻を同時に知り、その差を見ればよい。地球は24時間で360度回るので、1時間の差は15度にあたる。問題は、揺れる船の上で、何週間も基準の時刻を狂わずに保つ時計が無いことだった。1707年、イギリス艦隊がシリー諸島の岩礁で座礁し、千人を超える水兵が死んだ。位置の読み違いが原因とされる。1714年、議会は経度法を定め、経度を半度(赤道上でおよそ56キロ)以内で求める方法に2万ポンドの賞金をかけた。

ジョン・ハリソンは1693年、ヨークシャーの村で大工の子として生まれ、幼いころに一家でリンカンシャーのバロウへ移った。学校教育はほとんど受けていない。父の仕事を継いで大工になり、独学で時計を作り始めた。20歳ごろの最初の振り子時計は、歯車までほとんど木でできていた。木工の職人だったからだが、それが利点になった。自然に油を含む非常に硬い木(リグナムバイタ)を軸受に使えば、潤滑油が要らない。当時の油は劣化しやすく、時計が狂う大きな原因だった。

クロノメーターH5
クロノメーターH5Wikimedia Commons Racklever at English Wikipedia · CC BY 2.5

20代の彼は、のちの航海時計の土台になる工夫をいくつも生んでいる。真鍮と鋼は温度による伸びが違う。この二つを交互に組んで、一方が伸びると他方が押し戻すようにすると、振り子の長さが変わらない。すのこ形(グリッドアイアン)振り子である。摩擦が小さく油の要らない脱進機(バッタの脚のような動きから、グラスホッパー脱進機と呼ばれる)も作った。彼の塔時計は、1か月に1秒ほどしか狂わなかったと伝えられる。

1730年、ハリソンは海で使える時計の構想を持ってロンドンへ出た。王立天文台長のエドモンド・ハリーに会い、当代一の時計職人ジョージ・グレアムを紹介された。グレアムは田舎の職人の設計図を見て感心し、200ポンドを貸したという。1735年に完成したH1は、真鍮と木の大きな機械で、重さは30キロを超えた。振り子の代わりに、二つの錘をばねでつないで逆向きに振らせる。船が揺れても二つが同じ影響を受けて打ち消し合う仕掛けである。1736年、リスボンへの往復航海で試され、帰路では船の推定位置を大きく正した。経度委員会(賞金を審査する委員会)は有望と認め、改良の資金を出した。

ジョン・ハリソンの肖像
ジョン・ハリソンの肖像Wikimedia Commons Thomas King († circa 1796 date QS:P,+1796-00-00T00:00:00Z/9,P1480,Q5727902 ) · Public domain

ハリソンはそれから20年以上、改良を続けた。H2は完成したあと自分で欠点に気づき、試験を申し出なかった。H3には19年をかけた。温度で曲がる二種の金属の貼り合わせ(バイメタル)や、玉軸受の祖先にあたる軸受を、この時計のために考え出している。それでも、求める精度には届かなかった。

H4で、彼は方針を捨てた。大きな機械ではなく、直径13センチほど、重さ1.5キロ足らずの、大きな懐中時計である。速く振れる天符と、宝石の軸受を使った。1759年に完成し、ハリソンは66歳になっていた。1761年11月、息子のウィリアムがH4を持って軍艦でジャマイカへ向かった。81日あまりの航海のあと、時計の遅れは5秒ほどだった。経度にすれば1.25分、赤道上で2キロ余りにあたる。法の条件を桁違いに上回る結果だった。

19世紀半ばのロングケース時計(グランドファーザー・クロック)機構の断面木版画
19世紀半ばのロングケース時計(グランドファーザー・クロック)機構の断面木版画Wikimedia Commons Edmund Beckett (Lord) Grimsthorpe · Public domain

委員会は賞金を払わなかった。偶然かもしれない、というのである。1764年にバルバドスへの航海で再び試し、誤差は39秒ほど、やはり条件をはるかに超えた。それでも委員会は条件を足した。時計を分解して仕組みをすべて明かすこと、他の職人が同じものを作れると示すことである。審査には、月と星の角度から経度を出す月距法の推進者で、1765年に王立天文官となったネヴィル・マスケリンが加わっていた。彼は月距法のための『航海暦』を編んでおり、ハリソンの側からは、競合する方法の当事者が審査していると見えた。1765年、委員会は設計の公開と引き換えに賞金の半分にあたる1万ポンドを支払うと決め、ハリソンは渋々H4を明け渡した。

H4の複製は、時計職人ラーカム・ケンダルが委員会の依頼で作った。K1と呼ばれるこの時計は、クックの太平洋航海の第2回航海(1772〜75年)に積まれ、ジェームズ・クックは航海日誌でその働きを高く評価している。一方のハリソンは、79歳でH5を仕上げ、国王ジョージ3世に訴えた。国王は自分の天文台でH5を試させ、精度を確かめたと伝えられる。1773年、議会は特別に8750ポンドをハリソンに与えた。経度法の賞金としてではなく、功績への報いとしてである。2万ポンドの賞金そのものは、結局、誰にも与えられなかった。

地球儀上の経線
地球儀上の経線Wikimedia Commons Pearson Scott Foresman · Public domain

ハリソンは1776年3月24日、ロンドンで死んだ。83歳の誕生日だったとされる。彼の時計は値が張り、すぐには広まらなかったが、ジョン・アーノルドやトマス・アーンショーが作りやすい形に改め、19世紀には航海用の時計(クロノメーター)を積むことが外洋船の当たり前になった。各国の船が同じ基準の時刻をそろえる必要から、港には正午を知らせる報時球が立てられていく。H1からH4はいまグリニッジの国立海洋博物館にあり、H1からH3は動き続けている。H4はぜんまいの摩耗を避けるため、ふだんは止めてあるという。

ハリソンの話は、天文学者と職人の対立として語られることが多い。マスケリンを悪役にする見方には、後世の誇張もあるとされる。月距法も実際には長く使われ、時計が高価だったあいだは両方が補い合った。確かなのは、学問の世界の外にいた一人の職人が、40年をかけて「時間を持ち運ぶ」ことを可能にし、それが海の地図と航路を変えたということである。

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