できごと

『自然の体系』

Systema Naturae
AD1735年
重要度 4
『自然の体系』に関わる図版:Linnaeus1758-title-page
Linnaeus1758-title-page Wikimedia Commons Carl Linnaeus · Public domain

概要

生きものを綱・目・属・種の階層に並べる体系を示した。属と種の二語で呼ぶ決まりを一貫して使うのは、のちの版(植物は1753年、動物は1758年)から。名前の付け方が揃ったことで、離れた土地の観察を初めて突き合わせられるようになる。

場所

ウプサラ
59.86°N 17.64°E · スウェーデン

関わった人(1)

カール・フォン・リンネAD1707年5月23日–AD1778年1月10日 · 著者

本文

18世紀のはじめ、ヨーロッパの博物学は名前の洪水の中にあった。大航海時代以来、アメリカやアジア、アフリカから見たこともない植物や動物が次々に持ち込まれ、知られる種の数は膨れ上がっていた。ところが、それを呼ぶ決まった方法が無い。植物の学名は、ラテン語で特徴を書き連ねた長い説明文のようなもので、新しい近縁種が見つかるたびに説明は長くなり、同じ植物が学者ごとに違う名で呼ばれた。ある本に載っている植物と、別の本に載っている植物が同じものなのか、確かめることさえ難しかった。

この混乱を整理しようとしたのが、スウェーデンの若い医学徒カール・フォン・リンネである。牧師の家に生まれ、幼いころから花に夢中だった彼は、ルンドとウプサラの大学で医学と植物学を学び、1732年には単身で北のラップランドを旅して植物を集めた。1735年、医学の学位を取るためにオランダへ渡り、ハルデルウェイクの大学で学位を得ると、ライデンで一冊の本を出版した。それが『自然の体系』である。オランダの学者たちがその才能を認め、出版の費用を出した。

1735年の動物分類表
1735年の動物分類表Wikimedia Commons Carl Linnaeus · Public domain

初版は、大判の紙わずか11ページの、一覧表のような冊子だった。リンネは自然を動物・植物・鉱物の三つの界に分け、それぞれを綱、目、属、種と段階的に区分していった。植物については、花の雄しべの数と形で綱を、雌しべの数で目を分ける方法をとった。花さえ見れば誰でも分類できる実用的な方法で、各地の学者や愛好家がこぞって使った。一方で、植物の「結婚」になぞらえたその説明は、品のないものだと非難も浴びた。花の中の器官で分けるこの方法は、植物どうしの本当の近さを表すものではなく、のちに別の分類に取って代わられる。

リンネはこの本を生涯にわたって書き直し続けた。版を重ねるごとに分量は増え、彼自身が手がけた最後の第12版は、2400ページを超える大著になった。とくに重要なのが1758年の第10版である。ここで彼は、すべての動物を属名と種小名の二語で呼ぶ方法を一貫して使った。植物については、すでに1753年の『植物の種』で同じ方法をとっていた(二名法)。長い説明文の代わりに、短い二語の名が一つの種を指す。この「二名法」によって、世界のどこで見つかった生きものも、同じ一つの名で呼べるようになった。今日の動物の学名は、この第10版を出発点としている。

『自然の体系』第10版(1758年)の「性の体系」解説表
『自然の体系』第10版(1758年)の「性の体系」解説表Wikimedia Commons Carl Linnaeus · CC BY 2.5

もう一つ、リンネが踏み込んだのは、人間の扱いだった。初版から彼は、人間を類人猿と同じ群れに入れて動物の表の中に置き、第10版では霊長類の中に「ホモ・サピエンス(賢い人)」の名で並べた。人間と猿を分ける特徴を博物学の方法で見つけることはできない、と彼は手紙に書いている。人間を神に似せて造られた特別な存在とみる考えが当たり前だった時代に、これは大胆な扱いだった。同じ第10版でクジラを魚から外して乳を飲ませる仲間に入れ、「哺乳類」という区分を作ったのもリンネである。

ただし、その表には影もあった。リンネは人類をアメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカの四つの変種に分け、肌の色だけでなく、気質や性格、従う法の違いまで書き添えた。ヨーロッパ人は法に従い、アフリカ人は気まぐれに従う、といった記述は、学問の名で偏見を固定するもので、のちの人種による序列づけの議論に使われていった。

カール・フォン・リンネ(1735-1740頃)
カール・フォン・リンネWikimedia Commons Henry Kingsbury / Martin Hoffman · Public domain

ウプサラ大学の教授となったリンネのもとには多くの弟子が集まり、彼らは世界各地へ採集に出た。日本に来て植物を調べたツンベルクや、クックの航海に加わったソランダーもその一人である。リンネの分類は、神が造った不変の種を整理するという考えに立っていたが、彼の整えた共通の名と体系があったからこそ、100年後のチャールズ・ダーウィンは、種と種の関係を世界中の観察から比べ、生きものの系統を考えることができた(『種の起源』)。名前を揃えるという地味な仕事が、生物学の土台を作ったのである。

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