吉田光由
概要
京都嵯峨の豪商角倉家の一族に生まれた。角倉は河川の開削と朱印船貿易で知られる。一族の角倉素庵に学び、明の『算法統宗』を読んで数学に入った。1627年、二十九歳で『塵劫記』を著す。絵を多く入れ、実用と遊びを並べ、版元を変えながら生涯に何度も改訂した。海賊版が横行したため、巻末に答えの無い問題を置いて自著を見分けさせた。それが遺題継承の慣行になった。晩年は失明したと伝えられる。
関わったできごと(1)
塵劫記AD1627年 · 著者本文
吉田光由(よしだ みつよし)は1598年、京都の嵯峨に生まれた。家は角倉(すみのくら)の一族である。角倉は吉田家の屋号のようなもので、光由はその分家の出だった。

一族の名を高めたのは、光由が生まれたころに働き盛りだった角倉了以である。了以は大堰川、富士川、天竜川の流れを切り開いて舟が通れるようにし、京都の町なかから伏見へ通じる高瀬川を掘った。朱印状を得て安南(いまのベトナム)へ船を出す海外貿易も営んだ。その子の角倉素庵は父の事業を継ぐ一方、儒学者藤原惺窩に学んだ学問と書の人で、本阿弥光悦らと組んで、美しい活字本「嵯峨本」を世に出した。土木、貿易、出版。測ることと数えることが、日々の仕事の中にある家だった。
光由は、一族の素庵から学問の手ほどきを受け、中国の書物を読んだとされる。割り算の指南を看板にした毛利重能にも学んだと伝えられる。光由が手にした中国の算術書が、明の程大位が1592年に著した『算法統宗』である。算盤を使った計算をまとめたこの本は、日本にも入ってきていた(算盤と読み書き算盤)。光由はそれをそのまま訳すのではなく、日本の暮らしに合うように組み直した。貨幣の単位も、枡や物差しも、年貢の仕組みも、中国とは違ったからである。

1627年、29歳の光由は『塵劫記』を出した(塵劫記)。題は仏典の言葉で、塵ほどの数、果てしない時を意味するとされる。この本は、それまでの算術書とまるで違っていた。
まず、絵が多かった。当時の算術書は文字ばかりだったが、光由は問題の場面を挿絵にした。鼠のつがいが月ごとに子を産んで増えていく鼠算、桶の油を大きさの違う枡で分ける油分け、材木の量や米の売り買い。嵯峨本を生んだ一族らしく、本の作りも美しかった。
次に、入門から始まっていた。数の名前と大きな数の単位、算盤の珠の置き方と動かし方から説き起こし、掛け算、割り算へと進む。商売の計算や、田畑の面積の測り方、川の幅や木の高さの求め方といった、すぐ役に立つ問題が並び、その合間に、謎解きのように楽しめる問題が挟まれていた。実用と遊びが、一冊の中に同居していたのである。
本はよく売れ、すぐに真似された。題を似せた偽の版が次々に出回り、中身も写された。著作権という考えのない時代である。光由は版を替え、中身を入れ替えながら、生涯に何度も改訂を重ねた。
1641年の版で、光由は一つの工夫をした。巻末に、答えを載せない問題を12問置いたのである。この問題が載っているのが本物だ、という目印であり、同時に、解けるものなら解いてみよ、という読者への挑戦でもあった。
これが思わぬ流れを生んだ。別の算術家がその問題を解いた本を出し、その巻末に、今度は自分の答えのない問題を載せる。次の人がそれを解き、また新しい問題を出す。「遺題継承」と呼ばれるこの慣わしは、その後長く続いた。榎並和澄、礒村吉徳、村松茂清と受け継がれ、1671年に沢口一之が『古今算法記』に15の遺題を残した。それをすべて解いてみせたのが、1674年の関孝和の『発微算法』である。学会も学術誌もない時代に、出版された本の連なりが、数学者たちの議論の場の役目を果たしたのである(関孝和と和算)。
光由の晩年のことは、あまり分かっていない。目が見えなくなったと伝えられ、細かな計算と文字に一生向き合ったせいだと語られることもあるが、確かなことは言えない。1673年に死んだ。
『塵劫記』は江戸時代を通じて最もよく読まれた数学の本であり続け、「塵劫記」という題そのものが算術の本の代名詞になった。無数の改作や類書が作られ、寺子屋でも計算を学ぶ手本として使われた。江戸の人々が日々の商いで算盤をはじき、田畑の広さを測り、年貢を計算できたことが、明治の近代化を下から支えたとしばしば言われる。その土台の一端に、この本がある。

鼠算も、油分けも、子どもたちを輪に並べて数えていく継子立ても、いまなお算数の楽しい問題として紹介されている。400年近く前に京都の豪商の一族の若者がまとめた問題が、形を変えながら解かれ続けているのである。