エイダ・ラヴレスの覚え書き
概要
イタリアの数学者メナブレアが書いた解析機関の解説を、エイダが英訳し、原文の2倍以上の長さの注釈を付けた。注記Gに、ベルヌーイ数を求める手続きが表の形で書かれている。最初のプログラムと呼ばれる。それ以上に重要なのは、彼女が「この機械は数を計算するだけのものではない」と書いたことである。記号の関係を扱えるなら、和声の規則を与えれば作曲もできる。同時に、機械は人が命じたことしかできない、とも書いた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
エイダ・ラブレスAD1815年12月10日–AD1852年11月27日 · 書いた本文
チャールズ・バベッジは1830年代、歯車で動く計算機を二つ考えていた(バベッジの階差機関と解析機関)。一つは決まった種類の表を自動で計算する階差機関、もう一つは、穴をあけたカードで手順を与えれば、どんな計算でもこなせるはずの解析機関である。後者は設計図の上にしか存在せず、イギリス政府の資金も得られず、理解する人もほとんどいなかった。1840年、バベッジはイタリアのトリノに招かれて、学者たちの前でこの機械の話をした。聞き手の一人に、若い軍の技術将校ルイジ・メナブレアがいた。のちにイタリアの首相になる人物である。
メナブレアは講演をもとに、解析機関の解説をフランス語で書き、1842年にジュネーヴの雑誌に載せた。これを英語に訳したのが、詩人バイロンの娘エイダ、ラヴレス伯爵夫人(エイダ・ラブレス)である。訳を見せられたバベッジは、なぜ自分で論文を書かなかったのかと尋ねた。彼女は、そんなことは思いつかなかったと答え、それなら注を付けてはどうかとバベッジが勧めた。バベッジが自伝に書いている話である。

注はAからGまで七つになり、本文の二倍をはるかに超える長さに膨らんだ。1843年、ロンドンの『科学論文集』第3巻に掲載されたが、署名は「A.A.L.」の頭文字だけだった。貴族の女性が科学の論文に実名で署名することは、当時はばかられた。
注Aで、彼女は階差機関と解析機関の違いをはっきり分けた。前者は特定の計算をするための機械であり、後者はあらゆる計算をしうる機械である。そこに有名な一節がある。ジャカード織機が花や葉の模様を織るように、解析機関は代数の模様を織る、というものだ。ジャカード織機は、穴をあけたカードの列で布の模様を指定する。バベッジの家には、この織機で織られたジャカード本人の肖像画が飾られていた。続く注で、彼女はカードの使い方や変数の扱い方を説明し、同じカードの束を何度も繰り返して使えば手順を大幅に短くできることを示した。いまで言う繰り返し(ループ)の考え方である。

注Gには、二つの重要なものがある。一つは、ベルヌーイ数という数の列を解析機関で求める手順を、表の形で書き出したものである。各行に、どの演算をするか、どの記憶の場所から数を取り出すか、結果をどこへ入れるかが書かれ、前の結果を使って次の値を順に作っていく。これが「世界最初のプログラム」と呼ばれる。ただし、この呼び方には異論もある。バベッジ自身がそれ以前に小さな手順の例を書いており、彼女の表には、印刷の誤りか彼女の誤りかは分からない小さな間違いも含まれている。それでも、当時印刷されたものとしては最も詳しく完全な計算の手順だったことは確かである。
もう一つは、機械が何をなしうるかについての洞察である。解析機関は数を扱うことに限られない。もし音の高さの関係のような数以外のものを、機械の操作に合う形で表すことができれば、機械はどんなに複雑で長い楽曲でも作るだろう、と彼女は書いた。計算機を「数を速く計算する機械」ではなく「記号を規則どおりに操作する機械」と見たのである。記号で表せるものなら、音楽も、文字も、図形も扱える。この見方がバベッジ自身の理解を超えていたと考える歴史家は多いが、バベッジもすでに同じことに気づいていたと見る歴史家もいる。

同じ注Gに、彼女はこうも書いた。解析機関は何かを生み出すことを気取りはしない。我々がそれに命じる方法を知っていることを、何でもできるにすぎない。百年あまりのち、アラン・チューリングは1950年の論文「計算機械と知能」でこの一節を「ラヴレス夫人の異議」として取り上げ、機械はしばしば私を驚かせる、と反論している。機械にできることの広さと、その限りの両方を、彼女は同じ注の中に書いていた。
エイダは1815年にロンドンで生まれた。両親の結婚はすぐに破綻し、母アナベラは生後一か月の娘を連れて実家へ戻った。父は翌年イギリスを去り、1824年、ギリシア独立戦争のさなかに36歳で死んだ。エイダは父の顔を知らずに育った。母自身も数学を学んだ人で、バイロンは結婚前に彼女を「平行四辺形の王女」と呼んでからかったという。母は、娘が父の「詩人の狂気」を受け継がないよう、幼いころから数学と論理を厳しく学ばせた。家庭教師には、天文学や物理学の解説書で知られたメアリー・サマヴィルや、論理学者オーガスタス・ド・モルガンがついた。17歳のとき、彼女はバベッジの家の夜会で階差機関の試作の一部を見て、その仕組みに強く惹かれた。以後二人は文通を続け、バベッジは彼女を「数の魔法使い」と呼んだ。

彼女は病弱で、晩年は痛みを抑えるために阿片を含む薬を使い、競馬の賭けで大きな借金を作ったとも伝えられる。1852年11月、癌のため36歳で死んだ。父と同じ年齢である。遺言で、ノッティンガムシャーの教会の、父の隣に葬られた。解析機関は結局作られず、彼女の注も長く忘れられた。
注が再び読まれるようになったのは、電子計算機が現れてからである。1953年、イギリスの研究者が計算機についての本に彼女の注を収め、バベッジとエイダの仕事が見直された。ENIACの登場から間もない時期だった。1979年にはアメリカ国防総省が新しいプログラム言語を彼女にちなんで「エイダ」と名づけ、いまは毎年10月の第2火曜日が、科学と技術の分野の女性をたたえる「エイダ・ラヴレスの日」になっている。