人物

ナスィールッディーン・トゥースィー

Nasir al-Din al-Tusi
AD1201年2月18日 – AD1274年6月26日(享年73)
イルハン朝重要度 5

概要

ホラーサーンのトゥース。イスマーイール派の城アラムートで20年、半ば捕虜として学問をした。1256年、フレグが城を落とすと、その顧問になった。バグダード攻略にも同行した。マラーガ天文台。『天文学の記憶』(トゥースィーの対)。三角法を天文学から独立した数学の分野にした。倫理学、論理学、ユークリッドとプトレマイオスの注釈。150以上の著作。

関わったできごと(2)

バグダードの陥落AD1258年 · 同行したマラーガ天文台AD1259年 · 建てさせた

本文

ナスィールッディーン・トゥースィーは、1201年2月18日、イラン東北部ホラーサーン地方の町トゥース(いまのマシュハドの近く)に生まれた。十二イマーム派、つまりシーア派の学者の家で、父は法学者だった。少年時代から、イスラム法と神学に加えて、数学、天文学、論理学を学んだ。やがてホラーサーンの学問の中心ニーシャープールに出て、医学と哲学、とりわけ11世紀の大学者イブン・スィーナーの著作を学んだ。

Nasir al-Din Tusi
Nasir al-Din TusiWikimedia Commons Public domain

20歳になるころ、東からモンゴルの軍がやって来た(モンゴル帝国の拡大)。チンギス・ハンの軍は1220年代の初め、中央アジアからホラーサーンへ攻め込み、抵抗した都市を徹底的に破壊した。1221年に陥落したニーシャープールでは、住民のほとんどが殺されたと伝えられる。学者たちは庇護者を求めて散り散りになった。

トゥースィーが身を寄せたのは、イラン北部の山岳に城砦を連ねていたイスマーイール派(ニザール派)の国だった(アラムートのニザール派)。ヨーロッパの十字軍の記録で「暗殺教団」と呼ばれた人々である。山の城砦には豊かな蔵書があり、学者を厚く遇した。トゥースィーはまず東部のクヒスターンの城の長官に招かれ、のちに本拠のアラムートの近くの城砦に移って、20年以上をそこで過ごした。彼が望んで滞在した客だったのか、事実上の捕虜だったのかは分からない。この時期に彼はイスマーイール派の教えに沿う著作を書いているが、のちにはそれを強いられたものだったと述べ、十二イマーム派の立場に戻っている。

ナスィールッディーン・トゥースィーの天文台
ナスィールッディーン・トゥースィーの天文台Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

山の城での年月は、学問の上で実り多かった。長官の名にちなんだペルシア語の倫理学書『ナースィル倫理学』は、個人の徳から、家の治め方、国の治め方までを論じ、ペルシア語圏で長く読み継がれた。ギリシアの数学者たち、エウクレイデス、アルキメデス、アポロニオス、そしてプトレマイオスの著作のアラビア語訳を校訂し、注をつけた。彼の版は、その後のイスラム世界の標準の教科書になった。『四辺形論』では、それまで天文学の計算の道具として扱われてきた三角法を、天文学から切り離し、独立した数学の一分野として体系的に論じた。

1256年、チンギス・ハンの孫フレグが率いるモンゴルの大軍が、イスマーイール派の城砦を次々に囲んだ。トゥースィーは、城主ルクヌッディーンに降伏を勧めた側にいたとされる。城は開かれ、イスマーイール派の国は滅んだ。アラムートの名高い蔵書は焼かれ、同行していた歴史家ジュヴァイニーが一部の書物を救い出したと伝わる。

学問、とくに星を読む力を重んじたフレグは、トゥースィーを顧問として迎えた。1258年、フレグの軍はアッバース朝の都バグダードを攻め落とし、カリフを殺した(バグダードの陥落)。トゥースィーはこの遠征に同行していた。カリフを殺せば天変地異が起こると恐れる者たちに、彼は、カリフが死んでも太陽は昇り続けるでしょう、と言ってフレグの迷いを払ったという話が伝わるが、真偽は分からない。シーア派の学者が、スンナ派のカリフの滅亡に立ち会ったことは、のちの時代に長く語り継がれた。その一方で、彼が戦乱の中で書物を保護し、学者たちの命を救ったことも記録されている。

バグダードの陥落に関わる図版:Bagdad1258
バグダードの陥落Wikimedia Commons Sayf al-vâhidî et al. · Public domain

フレグが西アジアに建てたイル・ハン国のもとで(イル汗国)、トゥースィーは大きな事業を任された。1259年、イラン北西部のマラーガの丘の上に、天文台の建設が始まった。彼はフレグを説いて、宗教寄進の財産からの収入を天文台の運営にあてることを認めさせた。天文台には大きな観測の器具が据えられ、各地から天文学者が集められ、膨大な蔵書が置かれた。中国から来た学者もいたと伝えられる。王の気まぐれではなく、決まった財源で長く続く研究の拠点が作られたのである。

マラーガでの研究から生まれた最も大きな成果は、天体の動きの模型の改良だった。2世紀のクラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』(『アルマゲスト』)以来の天文学は、天体が円を描いて一定の速さで動くことを原則としながら、観測に合わせるために、円の中心から外れた点から見て一定の速さに見える、という無理な仕掛けを使っていた。トゥースィーは1261年ごろに書いた『天文学の記憶』でこの矛盾を指摘し、代わりの仕掛けを示した。大きな円の内側を、半径がその半分の小さな円が転がると、小さな円の周上の一点は、大きな円の直径の上をまっすぐ往復する。円の動きを組み合わせるだけで、直線の動きが作れる。のちに「トゥースィーの対」と呼ばれるこの仕掛けを使えば、無理な仕掛けを使わずに天体の模型を組み立てられた。1272年には、マラーガでの観測をまとめた『イル・ハン天文表』が完成した。

『アルマゲスト』に関わる図版:Claudius Ptolemaeus, Almagestum, 1515
『アルマゲスト』Wikimedia Commons Ptolemy · Public domain

生涯の著作は150を超え、天文学と数学のほか、光学、医学、鉱物学、論理学、倫理学、神学にわたる。ペルシア語とアラビア語の両方で書いた。十二イマーム派の教義を論じた著作は、今もシーア派の学院で読まれている。

1274年6月26日、バグダードで死んだ。73歳だった。遺体は、バグダード近郊のカーズィマインにある、シーア派の第7代イマームの廟の近くに葬られた。

トゥースィーを称えるアゼルバイジャンの切手(2009年)
トゥースィーを称えるアゼルバイジャンの切手(2009年)Wikimedia Commons Design: Kh. Mirzoyev · Public domain

彼の死から250年あまり後、ポーランドのコペルニクスは、地球が太陽の周りを回るという新しい体系を組み立てたとき、トゥースィーの対とまったく同じ仕掛けを使った。20世紀の半ばから、科学史家たちは、コペルニクスの本の中に、マラーガの学者たちや14世紀のダマスクスの天文学者イブン・シャーティルの模型と同じものがいくつも含まれていることを明らかにした。図に振られた記号の並びまでが、アラビア語の写本の図と一致する例も指摘されている。それがどのような経路でコペルニクスに届いたのかは、まだ突き止められていない。

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