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Person / 人

イグナーツ・ゼンメルワイス

Ignaz Semmelweis
AD1818年7月1日 – AD1865年8月13日(享年47)
ハンガリー重要度 5

概要

ブダの商家。ウィーンで産科。友人が解剖のとき指を切って、産褥熱と同じ症状で死んだのを見て、「死体の粒子」が原因だと考えた。手洗いで死亡率を10分の1に。論文をなかなか書かず、書いたときは同僚を「殺人者」と呼ぶ調子だった。ウィーンを追われ、ブダペストで成果を上げ、精神を病み、精神病院に入れられて、看守に殴られ、2週間で死んだ。同じ年、リスターが石炭酸を使い始めた。

関わったできごと(1)

ゼンメルワイスの手洗いAD1847年5月 · 洗わせた

本文

1818年7月1日、ブダ(ブダペストの西半分)のタバーン地区。ドイツ系ハンガリー人の食料品商の5番目の子。裕福だった。

ウィーン大学、法学(父の希望)から医学へ。1844年、医学博士。外科と産科を選んだ(内科の職が空いていなかった)。1846年2月、ウィーン総合病院第一産科の助手。

数字。1841〜46年の6年で、第一病棟(医学生)の分娩2万人あまりに死者1989人(9.9%)、第二病棟(助産婦)1万7000あまりに691人(3.4%)。産褥熱。高熱、腹痛、悪露の悪臭、数日で死ぬ。当時の説明は、瘴気、宇宙的な気の影響、便秘、妊婦の心の動揺、「牛乳が固まる」、司祭の鈴の音。

1847年3月20日、ヤコブ・コレチカが死んだ。法医学の教授で、友人。学生が解剖のときに、彼の指をメスで傷つけた。数日後、リンパ管炎、門脈炎、胸膜炎、心膜炎、腹膜炎、髄膜炎。ゼンメルワイスは剖検の記録を読んで、産褥熱で死んだ女たちと同じ所見だと気づいた。

「私にとって、それは電撃のように明らかだった。……死体の粒子が、血管に入って、同じ病気を起こす。教授と学生は、解剖室から直接、産科の病棟へ来て、妊婦を内診する。助産婦は解剖をしない」。

1847年5月中旬、塩化石灰の水で、手を洗うことを命じた(石鹸では死臭が消えなかった。臭いが消えるまで洗うことを、粒子が消えた印にした)。1847年4月の死亡率18.3%、6月2.2%、7月1.2%、8月1.9%、11月1.4%。1848年、全体で1.27%(第二病棟は1.33%)。1848年10月と12月は、ゼロ。

1848年、彼は器具も洗うことにした(1人の患者から、11人に感染した例を見て)。

反対。上司ヨハン・クライン(旧派)は、彼の説を「学生を侮辱するもの」と受け取った。ウィーンの権威ロキタンスキーとスコダとヘブラは初め支持して、離れていった。ゼンメルワイスは論文を書かず、友人が代わりに講演し、要点が誤って伝わった(「病棟の空気を消毒すればよい」と読んだ人がいた)。

1849年3月、契約が更新されなかった。1850年、ウィーン医師会で講演したが、聴衆はほとんど動かなかった。10月、誰にも告げずにブダペストへ帰った。

聖ロクス病院の無給の産科部長。同じ方法。1851〜55年で死亡率0.85%。1855年、ペスト大学の産科教授。

1861年、『産褥熱の病因、概念、および予防』。543ページ。数字と、論と、そして怒り。「あなたたち、産科の教師よ、私はあなたたちに問う。……この殺戮を止めるために、あなたたちは何をしたか」。公開書簡(スパート、シーボルト、シュコダらへ)。「あなたは殺人の共犯者である」。書評は冷たかった。

精神の崩れ。1865年、行動が異常になった(記録には、うつ、忘却、猥雑な発言、飲酒。梅毒、アルツハイマー、双極性障害と、後に推定されている)。7月30日、同僚のヘブラが「新しい施設を見に行こう」と言って、ウィーンの精神病院(ラント精神病院)へ連れて行った。着いて、入院と分かって、逃げようとした。看守数人に押さえられ、殴られ、拘束衣を着せられ、暗い部屋に入れられた。右手の傷が化膿した。8月13日、死んだ。47歳。剖検の記録に、多数の傷と骨折がある。

葬儀に来たのは数人。ペストの医師会は、彼の死に触れなかった。

1865年、リスターが石炭酸を使い始めた(ゼンメルワイスを知らずに)。1879年3月、パリの医学アカデミー。産褥熱の原因をめぐる議論で、パスツールが立って、黒板に連鎖球菌の絵を描いた。「これが原因です。それを運ぶのは、あなた方、医師です」。

ブダペストの生家は、いま「ゼンメルワイス医学史博物館」。庭に、彼の墓がある。ハンガリーの医科大学は、彼の名で呼ばれている。2013年、ユネスコの記憶遺産に、彼の発見の文書が登録された。