ケルクホフスの原理
概要
オランダ生まれの言語学者オーギュスト・ケルクホフスが、軍事暗号についての論文で、六つの要件を挙げた。その二つ目が、後に彼の名で呼ばれる。仕組みが敵の手に渡っても、鍵さえ秘密であれば安全でなければならない。装置は盗まれ、人は寝返り、手順は漏れる。秘密にできるのは、取り替えのきく短い鍵だけである。当時の軍は、方式そのものを隠すことに頼っていた。現代の暗号は、逆に、方式を全部公開して、世界中の攻撃に晒して確かめる。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
オーギュスト・ケルクホフス(1835〜1903年)は、軍人でも数学者でもなかった。オランダ南部のヌートに生まれ、各地で語学を教えた言語学者である。ドイツ語、フランス語、英語、オランダ語を操り、のちにはパリの商業学校でドイツ語を教えた。人工言語ヴォラピュクの普及運動にも熱心に関わり、その国際的な組織の指導者の一人になったが、創始者シュライヤーと文法の改革をめぐって対立し、運動は分裂した。同じ頃、ザメンホフがエスペラントを世に出している。
そのケルクホフスが1883年、フランスの軍事科学の雑誌に二回に分けて「軍事暗号」という論文を載せた。60ページほどの論文で、彼は当時の軍の暗号のやり方を批判し、戦場で使える暗号が満たすべき六つの要件を挙げた。電信が普及し、軍の命令が電線を通って送られる時代になっていた。電線は途中で盗聴でき、電信局の職員は文面を目にする。暗号は、一部の外交官のための特殊な技術から、大量の命令を毎日やり取りする軍隊の道具へと変わりつつあった。
六つの要件は、おおよそ次のとおりである。一つ目、方式は数学的に解読不可能でなくてもよいが、実際には解けないものでなければならない。二つ目、方式が敵の手に渡っても困らないものでなければならない。三つ目、鍵は書き留めずに覚えられ、たやすく変えられるものでなければならない。四つ目、電信で送れなければならない。五つ目、装置や書類は一人で持ち運び、扱えるものでなければならない。六つ目、使うのに長い規則の一覧や強い精神の集中を要してはならない。このうち二つ目が、のちに「ケルクホフスの原理」と呼ばれるようになった。
二つ目の要件の理由は、戦場の現実にある。暗号の装置は奪われる。人は寝返る。手順書は捕獲される。それが戦争では日常である。だから、敵に知られないことを当てにできるのは、取り替えのきく短い鍵だけだ。鍵が漏れたら、鍵を変えればすむ。方式が漏れたら、方式そのものを作り直し、全軍に配り直し、使い方を教え直さなければならない。それには何年もかかる。ところが当時の軍は、逆のことをしていた。方式そのものを秘密にすることで、安全を保とうとしていたのである。のちに「隠すことによる安全」と皮肉られるやり方だ。
ケルクホフスの警告は、20世紀に繰り返し裏づけられた。第一次世界大戦では、ドイツの外交電報がイギリスに解読され、ツィンメルマン電報がアメリカの参戦を早めた。第二次世界大戦のドイツのエニグマは、装置の仕組みが十分に秘密だと信じられていた。ところが商用の型はすでに市販されていて、ポーランドの数学者マリアン・レイェフスキらは1930年代に、数学の推論で軍用機の配線を割り出した。その成果はイギリスに引き継がれ、アラン・チューリングらが解読を大規模に進めた(エニグマの解読)。破られた理由の多くは、運用の誤りにあった。毎朝同じ決まり文句で始まる気象通報、規則性のある鍵の選び方、そして「ある文字は決してその文字自身には変換されない」という機構の性質。方式を隠していても、使う人間の癖までは隠せなかった。日本の外交暗号機「九七式欧文印字機」も、アメリカに破られている。
冷戦期には、もっと皮肉な例がある。スイスの暗号機の会社クリプトAGは、中立国の製品として世界の百を超える国に暗号機を売っていたが、実はアメリカの中央情報局と西ドイツの情報機関がひそかに所有していた。売られた機械の多くは解読しやすいように細工されており、買った国々の通信は何十年も読まれ続けた。2020年に報道で明らかになったこの事件は、方式を信じて買うことの危うさを、これ以上ない形で示した。
現代の暗号は、ケルクホフスの原理を土台にして、さらに一歩進んでいる。方式は全部公開する。アメリカの標準暗号を選ぶときには、公開の競技が開かれ、世界中の暗号学者が候補を何年も攻撃した。生き残って2001年に標準になったのは、ベルギーの二人の研究者が設計した方式である。誰もが中身を知っていて、それでも誰も破れなかったことが、信頼の根拠になる。1976年に発表された公開鍵暗号も、方式を公開したまま、鍵の一部まで公開してしまうという、ケルクホフスの考えの延長線上にある発想だった。
方式を公開すれば安全が保証される、というわけでもない。公開されたソフトウェアにも欠陥は潜む。2014年には、インターネットの通信の暗号化に広く使われていた公開のソフトウェアに重大な欠陥が見つかったが、それは二年ほど誰にも気づかれていなかった。逆に、独自の非公開の暗号を売る製品も後を絶たず、中身が明らかになると短い期間で破られる例が繰り返されている。
そして、しばしば忘れられるのが六つ目の要件である。疲れた兵士が、夜、砲撃の下で使えるか。使いにくい暗号は使われず、使われなければ平文で送られる。現代の暗号そのものはきわめて強い。破られるのは、ほとんどが人のところである。弱いパスワード、使い回し、偽の画面に騙されて自分から渡してしまうこと。安全でも使いにくい仕組みは、付箋に書かれたパスワードや、切られた二段階の認証によって、利用者の手で回避される。百四十年前、ケルクホフスは二つ目の要件で方式と鍵の関係を言い当て、六つ目の要件で、暗号の弱点が最後には人間にあることも書き残していた。