ナンセンのフラム号
概要
氷に閉じ込めても潰れない船を作り、シベリアの北で氷に入れて、海流で北極点を越えようとした。3年。点には届かず、ナンセンは一人と犬で歩いて北緯86度14分、人類の最北。帰りの冬をシロクマの肉と脂で越した。船も人も帰った。海が動いていることが分かった。
場所
89.90°N 0.00°E · 北極海
関わった人(1)
フリチョフ・ナンセンAD1861年10月10日–AD1930年5月13日 · 歩いた本文
1881年、アメリカの探検船ジャネット号が、シベリアの北のノヴォシビルスク諸島の近くで氷に押し潰されて沈んだ。3年後の1884年、その船の遺品とみられる物が、遠く離れたグリーンランドの南西の海岸で、流氷の上から見つかった。北極の海の氷は、シベリアの側からグリーンランドの側へ、海を横切って動いているのではないか。ノルウェーの気象学者がそう論じた文章を読んで、若い動物学者フリチョフ・ナンセンは考えた。ならば、氷に潰されない船を作り、シベリアの北でわざと氷に閉じ込められれば、氷と一緒に流されて北極点の近くを通り、反対側に抜けられるはずだ。
ナンセンは、1888年にスキーでグリーンランドの氷床を初めて横断して名を上げていた。1890年、彼が計画を地理学会で発表すると、極地の経験者たちの多くは、自殺行為だと批判した。だがノルウェーの議会と寄付者は資金を出した。船の設計は、造船家コリン・アーチャーに任された。船体を丸く、卵のような形にし、氷が両側から押してきても、船が潰されずに上へ押し出されるようにする。壁は分厚い木を重ね、寒さを防ぐ工夫を凝らした。船は「フラム(前へ)」と名づけられた。

1893年6月24日、フラム号は13人を乗せてクリスチャニア(いまのオスロ)を出た。船長はオットー・スヴェルドルップである。シベリアの北岸に沿って東へ進み、9月、ノヴォシビルスク諸島の北で氷に入った。氷が締めつけてくると、船体はきしんだが、設計どおりに持ち上がり、潰れなかった。船は氷とともに漂い始めた。
だが、流れはナンセンの期待より遅く、北極点からはそれていった。一年以上たっても、点に届く見込みは立たなかった。ナンセンは、船を離れて犬ぞりで点を目指すことを決める。1895年3月14日、北緯84度4分の地点で、ナンセンと海軍の軍人ヤルマール・ヨハンセンは、犬28頭、そり3台、カヤック2艘を持って氷の上に出た。船に戻ることは考えず、帰りはフランツ・ヨーゼフ諸島を目指す計画だった。

氷の上は、割れ目と、押し合ってできた氷の壁の連続だった。しかも氷そのものが南へ流れており、進んでも押し戻された。4月8日、北緯86度14分に達したところで、二人は引き返すことを決めた。それまで人が到達した最も北の地点だった。帰り道、二人は弱った犬を一頭ずつ殺して、残りの犬の餌にした。8月、ようやく陸地にたどり着いたが、冬が迫っていた。
二人は小さな島で、石を積み、セイウチの皮を屋根にした穴のような小屋を作って、9か月の冬を越した。食べたのはシロクマとセイウチの肉で、燃料もセイウチの脂だった。服は脂と煤で真っ黒になった。年の明けた日、ナンセンは、年上のヨハンセンに、互いをかしこまった呼び方ではなく親しい呼び方で呼び合おうと持ちかけたという。

1896年5月、二人は南へ向けて出発した。6月17日、フランツ・ヨーゼフ諸島の南の岬で、ナンセンは犬の吠える声を聞いた。そこにいたのは、イギリスの探検隊を率いるフレデリック・ジャクソンだった。ジャクソンはナンセンを探していたわけではなく、偶然の出会いだった。二人はジャクソンの補給船で、8月13日にノルウェー北部のヴァルドーに着いた。その一週間後、フラム号も、スピッツベルゲンの北で氷から抜け出して、無事にノルウェーに戻ったという知らせが届いた。船は3年近く漂い、北緯85度57分まで達していた。一人の死者も出なかった。
点には届かなかったが、航海は大きな成果を残した。北極の海の中央は陸ではなく、深さ3000メートルを超える深い海だった。氷は海流と風によって、海を横切って流れていた。ナンセンは、氷が風の向きよりも右にそれて流れることに気づき、それはのちに海の流れの理論の手がかりになった。北極海の科学は、ここから始まったと言われる。

フラム号はその後も使われ、1910年にはロアール・アムンセンが借りて南極へ向かった(アムンセンの南極点)。いまはオスロの博物館に、船ごと建物の中に収められている。ナンセン自身は、その後、ノルウェーの独立の外交に関わり、第一次世界大戦の後は、捕虜の帰還と難民の救済に力を尽くした(ナンセン・パスポート)。1922年にはノーベル平和賞を受けている。行けるところまで行き、無理だと分かれば引き返して、必ず生きて帰る。ナンセンの探検は、その判断の確かさで今も語られる。