できごと

関孝和と和算

Seki Takakazu and Japanese mathematics
AD1683年
重要度 4
ロシア帝国清スペイン帝国中央アジアの諸ハン国チベットチュクチ明の滅亡後の軍閥アユタヤ朝Avaシャン諸邦Koryaks日本大越朝鮮王朝Itelmenラオスの諸国大越フィリピンカンボジアLan NaアイヌモシリAD1683年江戸
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概要

甲府藩、のち幕府の勘定方に仕えた武士が、中国伝来の数学を組み替えた。算木を並べる代わりに、紙の上で未知数を記号で表す「傍書法」を作り、多元の高次方程式を扱った。行列式に相当する考え方を、ヨーロッパのライプニッツとほぼ同時期に得ている。円周率を小数第11位まで、円の求積を無限級数で。門人が全国に広がり、神社に問題と解答の絵馬を奉納する「算額」の風習が生まれた。数学が庶民の趣味になった、珍しい例である。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(1)

関孝和AD1642年頃(1637年説もある)–AD1708年12月5日 · 編み出した

本文

江戸時代の日本で独自に育った数学を、和算と呼ぶ。その出発点には、中国から来た数学の書物と、そろばんの伝来があった。とりわけ大きかったのが、元の朱世傑が1299年に著した『算学啓蒙』で、朝鮮を経て日本に伝わり、和算家たちの教科書になった。

和算を広く世に広めたのは、1627年に京都の吉田光由が出した塵劫記である。掛け算の九九、田畑の面積や米俵の体積、両替や利息の計算といった実用の知識に、「ねずみ算」や「油分け算」のような面白い問題を交え、挿絵を添えた。この本は爆発的に売れ、版を重ね、まねた本が次々に出て、江戸時代を通じて読み継がれた。

関孝和の肖像
関孝和の肖像Wikimedia Commons upload by AMorozov · Public domain

『塵劫記』の版の一つには、答えを付けない問題が載せられた。読者への挑戦状で、「遺題」と呼ばれる。誰かがそれを解いて本にすると、その本の末尾にまた答えのない新しい問題を載せる。その問題を別の誰かが解き、また新しい問題を出す。この「遺題継承」が百年以上も続き、問題は代を追うごとに難しくなって、日本の数学の水準を押し上げていった。

関孝和は、この流れの中に現れた。生まれた年ははっきりせず、1640年代の初めごろとされる。内山家に生まれ、のちに関家の養子となった。甲府藩の藩主に仕えて、藩の財政や帳簿を扱う勘定方の役人を務めた。藩主の徳川綱豊が五代将軍綱吉の後継ぎに迎えられると(のちの六代将軍家宣)、関も幕府の直臣となった。師について学んだ記録はなく、ほとんど独学で数学を身につけたと考えられている。

関孝和『括要算法』に見える格子状の算木表記
関孝和『括要算法』に見える格子状の算木表記Wikimedia Commons Seki Kowa · Public domain

1674年、関は『発微算法』を出した。数年前に出た別の和算家の本に載っていた十五の遺題を、すべて解いてみせた本である。生前に刊行された関の著書は、これ一冊だけだった。ただし、この本には答えと方針が簡潔に書かれているだけで、どうやって解いたのかの説明はほとんどない。そのため、ほかの和算家から本当に解けているのかと疑われもした。のちに弟子の建部賢弘が、詳しい解説の本を書いて師の解き方を示している。

関の仕事で最も重要なのは、方程式を書く方法を変えたことである。それまでの東アジアの代数は、「算木」と呼ばれる細い棒を盤の上に並べて行うものだった。中国伝来の「天元術」では、盤の上の棒の位置と本数で方程式の係数を表し、棒を動かして計算する。この方法で扱えるのは、未知数が一つの方程式に限られていた。

関は、この計算を紙の上の文字に移した。未知数や既知の量を漢字で表し、その脇に係数や関係を書き添える。こうして、いくつもの未知数を含む式を紙の上に書き並べ、文字のまま組み替えて、一つの方程式にまとめることができるようになった。この書き方は「傍書法」と呼ばれ、のちに弟子筋によって整えられて「点竄術」と呼ばれる体系になる。和算は、ここで中国の数学の枠から抜け出し、独自の道を歩き始めた。

関の業績の多くは、生前には刊行されず、写本で弟子に伝えられ、死後に整理されて世に出た。1683年の『解伏題之法』では、いくつもの方程式から未知数を消去していく手順の中で、係数を組み合わせて作る量を考えている。これは、いまの数学で行列式と呼ばれるものに相当する。ヨーロッパでは、ドイツのゴットフリート・ライプニッツが1693年の手紙で同じ考えに触れているが、関はそれより十年ほど早く、まったく独立にこの考えに達していた。

死後の1712年に刊行された『括要算法』には、自然数の累乗の和を求める公式が載っている。その係数として現れる数の列は、いまスイスの数学者の名を取ってベルヌーイ数と呼ばれているものである。ヤコブ・ベルヌーイがそれを示した本も、翌1713年に死後出版された。東西の二人が、ほぼ同じ時期に同じ数に行き着いていた。

円周率の計算でも、関は工夫を見せた。円に内接する正多角形の辺の数を二倍、四倍と増やしていき、十三万を超える辺を持つ多角形の周の長さを計算した。さらに、その値が近づいていく先を、数列の近づき方から見通して先取りする方法を使い、十桁を超える精度の円周率を得た。この先取りの考え方は、ヨーロッパで二十世紀になって名前の付く計算法に相当する。

関の流れをくむ人々は「関流」と呼ばれ、江戸時代を通じて最も大きな和算の流派になった。弟子の建部賢弘は八代将軍吉宗に仕え、円周率を四十桁以上まで求め、円弧の長さを無限に続く和で表す式を見つけている。和算家たちはやがて、円の面積や弧の長さ、球の体積を無限級数で表す「円理」という分野を発展させていった。

和算には、世界でもほかに例の少ない習慣があった。「算額」である。数学の問題と答え、ときには問題だけを、絵馬の形の木の板に書き、神社や寺に奉納する。板には、円や三角形が複雑に接し合う図形が、色を使って美しく描かれ、「この図で小さな円の直径を求めよ」といった問題が添えられた。奉納したのは武士だけではない。商人、農民、僧、女性、それに子どもの名もある。師匠が門人の名を連ねて奉納したものも多い。

なぜ神社に奉納したのか。難問が解けたことを神に感謝するため、自分の腕を人々に示すため、そして自分の流派を宣伝するため、と考えられている。参拝に来た人がその問題を見て解き、答えを別の算額にして奉納することもあった。算額は十七世紀の後半から明治にかけて全国で数多く奉納され、いまも九百ほどが残っている。数学が、町や村の庶民の楽しみとして広がっていたことを、算額は物語っている。

明治に入ると、事情は一変した。1872年の学制で、学校で教える数学は西洋の数学と定められた(学制の公布)。和算は学校で教えられなくなり、和算家たちの多くは西洋の数学に移るか、私塾で細々と教え続けた。

和算が積み上げた記号の工夫や、行列式、級数の成果の多くは、西洋の数学の中にもすでに同じものがあった。関たちはそれに独立にたどり着いていたが、その系譜は明治で途切れ、世界の数学の流れに合流することはなかった。残ったのは、神社に掛けられた算額と、『塵劫記』と、数学を楽しむ人が大勢いた国だったという記憶である。

動画(1)

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