概要
デルフトの織物商が、自分で磨いた玉のようなレンズ(倍率270倍)で、雨水と、歯垢と、精液と、胡椒水を覗いた。「小さな動物(ディールケンス)」が泳いでいた。ロンドンの王立協会に、オランダ語の手紙で報告した。誰も信じず、フックが確かめて、認められた。細菌、原生動物、精子、赤血球、筋肉の横紋。レンズの作り方は誰にも教えず、死んだ。細菌がもう一度見られるまで100年かかった。
場所
52.01°N 4.36°E · オランダ
関わった人(1)
アントニ・ファン・レーウェンフックAD1632年10月24日–AD1723年8月26日 · 覗いた本文
アントニ・ファン・レーウェンフック。デルフトの籠職人の子。父は5歳のとき死んだ。学校は数年。アムステルダムの布地商で6年、徒弟をした。1654年、デルフトで自分の店を持った。市の下級役人(市庁の門番、測量士、ワインの検査官)も務めた。ラテン語もフランス語も知らない。オランダ語だけ。
布の織り目を数える拡大鏡から始めた。ガラスの棒を熱して引き伸ばし、先を溶かして小さな球を作り、それを真鍮の板2枚に挟んで、針の上に標本を置いて、目に近づけて覗く。手のひらに載る大きさ。1枚レンズ。彼のものは、当時の複式顕微鏡(フックのような)よりずっとよく見えた。倍率は最大で約270倍。分解能1.4マイクロメートル。
500台以上作った。作り方(特に、レンズの磨き方か、あるいは吹きガラスの球を使ったか)は、誰にも教えなかった。「私の方法は、私が死んだら、失われるだろう」。実際、失われた。現存は11台(10台とも)。
1673年、医師レイニール・デ・グラーフが、ロンドンの王立協会に彼を紹介した。オランダ語の手紙。協会が英語に訳して、『哲学紀要』に載せた。50年、190通。手紙は、観察と、雑談と、体調の話が混ざっている。
見たもの。1674年、湖の水(ベルケルセ湖)の緑の粒——藻類とゾウリムシ。「私は、これまで見たどんなものより小さい、生きた動物を見た」。1676年、胡椒を漬けた水に、無数の「小さな動物(ディールケンス)」。これが細菌(後で、彼の記述した大きさと形から確認された)。1677年、自分の精液(「夫婦の交わりの後、罪深い方法によらず、自然に余ったものを」と、わざわざ断って)に、尾を振って泳ぐ精子。数百万。1683年、自分の歯の間の白い物を水で薄めて、口の中の細菌(4種類の形を絵で描いた。棒、球、螺旋)。赤血球(1674年)。毛細血管の血の流れ(1683年。ハーヴェイの循環説の、失われていた輪を、目で見た)。筋肉の横紋。酵母。ハエの複眼。蚊の口。
王立協会は、初め信じなかった。1677年、ロバート・フックが自分で顕微鏡を作って、確かめた。「レーウェンフック氏の観察は、全て正しい」。1680年、彼は王立協会の会員に選ばれた(一度もロンドンへ行かなかった)。
デルフトの家に、名士が見に来た。イングランド女王メアリ2世、ロシアのピョートル大帝(1698年、船を降りて訪ねた)、そして何人もの貴族。彼は、いつも同じ標本を見せて、いちばん良い顕微鏡は見せなかった、と言われる。
1723年8月26日、90歳で死んだ。死の床で、友人に最後の2通の手紙を口述して、王立協会へ送らせた。遺言で、選んだ顕微鏡26台を協会に贈った(後に失われた)。
同じ1632年に、同じデルフトで、ヨハネス・フェルメールが生まれた。1675年、フェルメールが死んだとき、レーウェンフックが遺産管財人になった。二人が親しかったかは分からない。『天文学者』と『地理学者』のモデルは彼だ、という説がある。
細菌は、その後100年、ほとんど見られなかった(誰も彼のレンズを再現できなかった)。「微生物が病気を起こす」と分かるのは、パスツールとコッホの19世紀後半。