レーウェンフックの微生物
概要
デルフトの織物商が、自分で磨いた玉のようなレンズ(倍率270倍)で、雨水と、歯垢と、精液と、胡椒水を覗いた。「小さな動物(ディールケンス)」が泳いでいた。ロンドンの王立協会に、オランダ語の手紙で報告した。誰も信じず、フックが確かめて、認められた。細菌、原生動物、精子、赤血球、筋肉の横紋。レンズの作り方は誰にも教えず、死んだ。細菌がもう一度見られるまで100年かかった。
場所
52.01°N 4.36°E · オランダ
関わった人(1)
アントニ・ファン・レーウェンフックAD1632年10月24日–AD1723年8月26日 · 覗いた本文
アントニ・ファン・レーウェンフックは1632年、オランダのデルフトで籠職人の家に生まれた。5歳で父を亡くし、学校にはわずかしか通っていない。16歳でアムステルダムの布地商に奉公に出て、6年後にデルフトへ戻り、自分の店を開いた。のちには市庁舎の下級役人、測量士、ワインの計量検査官なども務めている。ラテン語もフランス語も読めず、生涯オランダ語しか使わなかった。17世紀の学問の共通語を知らない一介の商人が、肉眼では見えない生き物の世界を最初に見た人になる。
きっかけは布の品質を確かめる拡大鏡だったと考えられている。織り目を数えるため、布地商は小さなレンズを使った。レーウェンフックはそれをはるかに超えるものを自分で作った。米粒ほどの小さなガラスの球を磨き、あるいは溶かして作り、真鍮か銀の薄い板2枚の穴にはさむ。板の後ろに立てた針の先に標本を付け、ねじで位置を合わせて、レンズを目にくっつけるようにして明るい方へかざす。全体で手のひらに収まる、単式の顕微鏡である。同じころロバート・フックが『ミクログラフィア』(1665年、『ミクログラフィア』)で使った複式の顕微鏡より像はずっと鮮明で、現存する彼の顕微鏡の一つは約270倍の倍率を持つ。

彼は生涯に500枚以上のレンズを作ったが、その作り方を誰にも教えなかった。磨いたのか、吹いたガラスの球を使ったのか、特別な照明の工夫があったのか、いまも完全には分かっていない。現存する顕微鏡は10台ほどにすぎない。
1673年、デルフトの医師レイニール・デ・グラーフが、ロンドンの王立協会の設立に手紙を書き、この町に驚くべき顕微鏡を作る男がいると紹介した。レーウェンフックの最初の報告が添えられていた。以後50年にわたり、彼はオランダ語の手紙を協会に送り続け、その数は190通ほどになる。協会はそれを英語やラテン語に訳して機関誌『フィロソフィカル・トランザクションズ』に載せた。手紙は論文の形を取らず、観察の記録に、日々の出来事や体の具合の話が混じる、気取りのない文章だった。

1674年、彼はデルフト近くのベルケルセ湖の濁った水をすくい、その中に緑の螺旋状の藻や、動き回る小さな生き物を見た。1676年には、胡椒の辛みがどこから来るのかを調べようとして胡椒を水に漬け、数週間後にその水を覗いて、それまでよりさらに小さい無数の「小さな動物」が泳いでいるのを見た。1676年10月9日付の長い手紙で、彼はその形と動きと大きさを細かく書き送った。記述から見て、これが人類が初めて見た細菌だとされる。
ロンドンの学者たちは、すぐには信じなかった。一滴の水に何百万もの生き物がいるという話は、作り話に聞こえた。1677年、協会の実験主任フックが自分で顕微鏡を工夫して胡椒水を観察し、会員たちの前で確かにそれが見えることを示した。地元デルフトの牧師や公証人に見せて署名をもらった証明書も、レーウェンフックは送っていた。1680年、彼は王立協会の会員に選ばれた。一度もロンドンへは行かなかった。

観察の対象は身の回りのすべてだった。1677年には人の精液の中に、尾を振って泳ぐ無数の精子を見た。その報告では、夫婦の交わりのあとに自然に余ったものを使い、罪深い方法では得ていない、とわざわざ断っている。1683年には自分の歯の間からこすり取った白い垢を水で薄め、棒状、球状、らせん状の生き物を描いた。口の中の細菌の最初の絵である。赤血球の形と大きさを測り、1680年代の終わりには、ウナギやオタマジャクシの尾の中で血液が細い管を通って動脈から静脈へ流れるのを見た。毛細血管を流れる血の観察は、ハーヴェイの血液循環が理屈で予言した循環の輪を、目で確かめることになった。筋肉の横紋、酵母の粒、ノミやコクゾウムシの一生も調べ、こうした小さな虫が腐った物から自然に湧くのではなく、卵から生まれることを示した。
評判は広がり、デルフトの家には各地から見物人が訪れた。1698年には、ロシアのピョートル1世がオランダ滞在中に彼を船に招き、顕微鏡を覗いている。レーウェンフックは訪問客にいつも決まった標本しか見せず、いちばん良い顕微鏡は誰にも見せなかったと言われる。

同じ1632年、同じデルフトで、画家のヨハネス・フェルメールが生まれている。1675年にフェルメールが借金を残して死ぬと、翌年、レーウェンフックが市から遺産の管財人に任じられた。二人が親しかったかどうかは分からない。フェルメールの『天文学者』と『地理学者』のモデルは彼だという説もあるが、確かめる手立てはない。
1723年8月26日、彼は90歳で死んだ。死の床でも友人に手紙を口述し、協会へ送らせた。遺言で選りすぐりの顕微鏡26台を王立協会に贈ったが、それらはのちに行方が分からなくなった。

彼のレンズを再現できる人はいなかった。18世紀を通じて、微生物の研究は珍しいものを眺める好奇心の対象にとどまり、病気や発酵と結びつけられることはなかった。微生物が発酵や腐敗を起こし、病気の原因にもなると証明されるのは、19世紀後半のルイ・パスツールとロベルト・コッホの時代である。レーウェンフックは理論を立てず、仮説も唱えなかった。ただ見て、測り、書いた。その記録が、あとから来た人々にとって、目に見えない世界が確かに存在するという動かない証拠になった。