できごと

モーリーの風と海流の図

Maury's wind and current charts
AD1855年
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国デンマークアメリカ合衆国ヌエバ・エスパーニャ副王領スペイン帝国スペインAD1855年ワシントンD.C.
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1855年の版図を描いています(8勢力)。

概要

アメリカ海軍のマシュー・モーリーが、落馬の怪我で海上勤務を離れ、倉庫に積まれた古い航海日誌を読み始めた。何十年ぶんの、日ごとの風向と海流と水温。それを海域ごとに集計して図にした。船長たちは航路を変え、ニューヨークからリオまでの日数が10日縮んだ。彼は各国に「日誌を同じ書式で記録して共有しよう」と呼びかけ、1853年のブリュッセル会議で合意した。国際的な科学協力の早い例。

場所

ワシントンD.C.
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国

関わった人(1)

マシュー・モーリーAD1806年1月14日–AD1873年2月1日 · 集めた

本文

帆船の時代、船長が航路を決める手がかりは、自分と仲間の経験だった。どの海域でどの月にどんな風が吹くかは、港の酒場で語られる知恵として伝わり、書かれた形でまとまってはいなかった。同じ海を何千隻もの船が通っていたのに、その記録は一隻ごとの航海日誌に閉じこめられていた。

マシュー・モーリーは1806年、ヴァージニアに生まれ、テネシーで育った海軍士官である。1839年、33歳のとき、乗っていた駅馬車が横転して脚の骨を折り、骨が正しくつかずに脚が不自由になった。海上勤務の道は閉ざされた。1842年、ワシントンの海軍の「海図・器具保管所」の責任者に任じられる。のちに海軍天文台となる部署だが、当時は閑職と見られていた。

マシュー・モーリーの肖像
マシュー・モーリーの肖像Wikimedia Commons Brendann · Public domain

そこには、海軍の艦船が提出した古い航海日誌が、何十年ぶんも木箱に詰めて積まれていた。日誌には毎日、位置、風向、風力、海流、水温、天候が書きこまれている。誰も読み返していなかった。モーリーはこれを読み、集計することにした。海を緯度経度で5度四方の升目に区切り、升目ごと・月ごとに、どの方角の風が何割吹いたか、海流がどちらへどれほど流れたかを数える。人手の要る作業で、部下の士官や書記が何年もこれにかかった。

1847年、最初の北大西洋の風と海流の図が出た。続いて南大西洋、太平洋、インド洋へと広げ、捕鯨船のために鯨の目撃を集めた図も作った。彼は図を、決められた書式で日誌をつけて提出することを約束した船長に無料で配った。使う船が増えるほど集まる記録が増え、図が正確になる仕組みである。

ヴィンセンズ号のカラーリトグラフ(1845年)
ヴィンセンズ号のカラーリトグラフ(1845年)Wikimedia Commons N. Currier · Public domain

効果は航海の日数に表れた。ニューヨークからリオデジャネイロへの航海は10日ほど縮んだとされ、ホーン岬を回ってカリフォルニアへ向かう航海は、平均で180日前後から130日台に短くなったと言われる。ゴールドラッシュの最中の1851年、クリッパー船フライング・クラウド号はニューヨークからサンフランシスコまでを89日21時間で走った。航海の指揮をとった船長の妻エレノア・クリーシーはモーリーの図を使っていたとされ、この記録は帆船の記録として1989年まで破られなかった。

モーリーは、データは多いほどよく、それは一国の海軍だけでは足りないと考えた。各国の船が同じ書式で同じ項目を記録し、それを互いに交換すればよい。この呼びかけで、1853年8月から9月にかけてブリュッセルで海事気象の会議が開かれた。イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ポルトガル、ロシア、アメリカの10か国が集まり、標準の書式で観測して記録を交換することで合意した。国際的な科学協力の早い成功例とされ、のちの国際気象機関、さらに世界気象機関へと続く流れの源の一つに数えられる。イギリスで最初の天気予報が始まるのも、この観測網の上である。

1855年、モーリーは『海の自然地理学』を出した。海流、風、水深、海底の地形を一冊にまとめた本で、海洋学の最初の教科書と呼ばれることが多い。彼は測深の記録から、アイルランドとニューファンドランドのあいだの海底に比較的平らな高まりがあると指摘し、これを「電信台地」と呼んだ。この見立ては大西洋横断電信ケーブルを計画したサイラス・フィールドらを励ました。

大西洋横断電信ケーブルに関わる図版:Atlantic cable Map
大西洋横断電信ケーブルWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1861年、南北戦争が始まり、故郷ヴァージニアが連邦を離脱すると、モーリーは海軍を辞めて南部連合に加わった。電気で起爆する水中の爆弾、当時「魚雷」と呼ばれた機雷の開発にかかわり、のちに船と物資の調達のためイギリスへ送られた。敗戦後は帰国できず、メキシコ皇帝マクシミリアンのもとで、南部からの移住者の植民地を作る計画を進めた。元奴隷所有者たちを呼び寄せる構想だったが、帝政そのものが崩れて計画も消えた(フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊)。1868年に帰国してヴァージニア軍事学校の教授となり、1873年に死んだ。

彼の方法は観測の集計に徹した経験的なもので、同時代のヨーロッパの学者からは理論の浅さを批判された。それでも「海の道を拓いた人」と呼ばれ、集めた記録と、国が違っても同じ書式で観測して分け合うという枠組みは、今日の気象観測の土台に残った。一方で南部連合に仕えた経歴は消えず、リッチモンドに立っていた彼の像は2020年に撤去された。

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