概要
アメリカ海軍のマシュー・モーリーが、落馬の怪我で海上勤務を離れ、倉庫に積まれた古い航海日誌を読み始めた。何十年ぶんの、日ごとの風向と海流と水温。それを海域ごとに集計して図にした。船長たちは航路を変え、ニューヨークからリオまでの日数が10日縮んだ。彼は各国に「日誌を同じ書式で記録して共有しよう」と呼びかけ、1853年のブリュッセル会議で合意した。国際的な科学協力の早い例。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
マシュー・モーリーAD1806年1月14日–AD1873年2月1日 · 集めた本文
**マシュー・フォンテーン・モーリー**。1806年、ヴァージニア生まれ。海軍士官。
1839年、33歳のとき、駅馬車が横転して大腿骨を折り、正しく接がれずに脚が不自由になった。海上勤務ができなくなった。
1842年、ワシントンの海軍の「海図・器具保管所」(後の海軍天文台)の所長になった。閑職である。
そこに、何があったか。海軍の艦船が提出した、古い**航海日誌**が、木箱に詰まれて積まれていた。何十年ぶん。誰も読んでいない。
日誌には、毎日、書かれている。日付、位置、風向、風力、海流、水温、天候。
彼は、それを読み始めた。
**方法**。海図を、緯度経度で5度四方の升目に区切る。各升目、各月について、日誌から集めた風向と海流を集計する。この升目のこの月は、どの方角の風が何割か。
人手が要った。彼は部下と、雇った書記に、何年もこの作業をさせた。
**成果**。1847年、最初の『大西洋の風と海流の図』。以後、太平洋、インド洋へ広げ、鯨の分布図(捕鯨船のために)まで作った。
船長たちが、航路を変え始めた。
ニューヨークからリオデジャネイロ:**55日 → 38日**。 ニューヨークからサンフランシスコ(ホーン岬回り):**180日 → 133日**。
(後者は、彼の助言に従ったクリッパー船の記録。1851年、フライング・クラウド号が89日21時間という記録を作り、これは1989年まで破られなかった。)
1855年、『**海の自然地理学**』。海洋学の最初の教科書とされる。海流、深度、風、そして海底の地形。彼は、大西洋の中央に浅い高まりがあることを、測深のデータから指摘した(「テレグラフ台地」。後の大西洋中央海嶺)。この情報が、大西洋横断ケーブルの敷設を可能にした。
**国際協力**。彼は考えた。データが多いほど図は正確になる。だから、各国の船が、同じ書式で同じ項目を記録し、共有すればよい。
1853年8月、**ブリュッセルの海事気象会議**。10か国が集まった。イギリス、フランス、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、ベルギー、ポルトガル、ロシア、アメリカ。
合意した。標準の書式で気象を観測し、記録し、無償で交換する。
これは、国際的な科学協力の、最も早い成功例の一つである。世界気象機関(WMO)の系譜は、ここに遡る。
**南北戦争**。1861年、ヴァージニアが連邦を離脱した。モーリーは辞表を出し、南部連合に付いた。彼は機雷(当時「魚雷」と呼ばれた電気式の水中爆弾)の開発を担当し、イギリスへ艦船の調達に派遣された。
戦後、彼は敗軍の側の人間として帰国できず、メキシコへ渡った。皇帝マクシミリアンの下で、南部人の移民植民地を作ろうとした(この計画には、南部の元奴隷所有者を、労働者を連れて移住させる構想が含まれていた)。計画は破綻した。
1868年に帰国し、ヴァージニア軍事学校の物理学教授。1873年、死去。
**評価**。彼の統計の手法は経験的で、当時のヨーロッパの気象学者からは理論的な浅さを批判された。しかし、彼が集めたデータと、彼が始めた国際的な観測の枠組みは、残った。
いまも、海底の一つの海嶺に、彼の名がついている。