『傷寒論』
概要
熱病の経過を段階に分け、段階ごとに処方を定めた。一族の三分の二を疫病で失った医者が書いた。漢方の処方の多くがここから来ている。
場所
32.99°N 112.53°E · 中国・河南省南陽市
関わった人(1)
張仲景AD150年頃–AD219年頃 · 著者本文
後漢の終わり、2世紀の後半から、中国では疫病が繰り返し流行した。黄巾の乱の背景にも、病と飢えに苦しむ民衆に、まじないの水で病を治すと説いた教団の広がりがあった。戦乱が続き、人が流れ、村が荒れると、病はさらに広がる。217年には大きな疫病が起き、曹丕は友への手紙で、親しい文人たちが一度に亡くなったことを嘆いている。
その時代に、南陽の医者張仲景がこの本を書いた。序文に、書いた理由が記されている。一族はもともと200人あまりいたが、建安の年号が始まってから10年もたたないうちに3分の2が死に、そのうち7割が傷寒だった、と。張仲景は、昔の医書を広く集め、自分の経験を合わせて、16巻の『傷寒雑病論』をまとめた。

傷寒は、寒さに傷つけられる病、という意味になる。体の外から寒の邪気が入り込んで起きる急性の熱病を指した。いまの病名でいえば、インフルエンザや腸チフスなど、さまざまな感染症が含まれていたと考えられている。
張仲景がしたのは、病の経過を段階に分けることだった。太陽、陽明、少陽、太陰、少陰、厥陰の六つの段階(六経)になる。寒けがして頭が痛み、首筋がこわばるうちは、病はまだ体の表にある。高い熱が続き、便秘やうわごとが出れば、病は体の内に入っている。熱と寒けが交互に来るのは、その中間にいるとき。さらに病が進むと、手足が冷え、脈が弱り、体力が尽きていく。
段階を見きわめたうえで、段階ごとに処方を定めた。表にあるうちは汗を出させて追い出す。内に入れば下して出す。体力が尽きかけていれば温めて補う。同じ熱病でも、いまどの段階にいるかで、正反対の治療になる。逆の治療をすれば病は悪化する、と繰り返し戒めている。
いま読まれている版で、条文は400近く、処方は110あまりになる。処方は生薬の組み合わせで、それぞれの量と煎じ方、飲ませ方まで細かく書かれている。汗が出たらそれ以上飲ませない、といった止めどきまで指示してある。葛根湯、桂枝湯、麻黄湯、小柴胡湯、五苓散。いまも日本の薬局に並んでいる名前になる。
その後の歩みは平坦ではなかった。原本は戦乱の中で散り散りになり、西晋の医官王叔和が集め直して編んだ。のちに、熱病を扱う部分が『傷寒論』、ほかの病を扱う部分が『金匱要略』として、別々に伝わることになる。北宋の時代、朝廷が医書を校訂する役所を設け、11世紀にこの二つも校訂して刊行した。いま読まれている本文は、この北宋の版がもとになっている。
張仲景その人については、分かっていることが少ない。正史に伝記が無い。長沙の太守を務め、役所の広間で病人を診たという話が伝わり、医者の店を「堂」と呼ぶのはそこから来たとも言われるが、確かな証拠は無い。のちに「医聖」と呼ばれ、同じ時代の外科の名医華佗と並べて語られる。
日本でも平安時代の医書にその処方が引かれているが、とりわけ重んじられたのは江戸時代になる。理屈の多い中国の後代の医学を退け、『傷寒論』の処方と症状の対応に立ち返ろうとする医者たちが現れ、古方派と呼ばれた。その代表の一人、吉益東洞は、病の原因をあれこれ論じるより、目の前の症状に合う処方を見きわめることがすべてだと説いた。彼らが重んじた、症状の組み合わせから処方を選ぶという考え方が、いまの日本の漢方の中心にある。どんな病人にも葛根湯を出す医者を笑う「葛根湯医者」という落語の小噺があるほど、その処方は人々に身近だった。
1800年前の熱病の本が、いまも医療の現場で処方の根拠として使われている。症状の組み合わせと経過から治療を選ぶ、という考え方の出発点がこの本になる。