マラーガ天文台
概要
フレグがバグダードを焼いた翌年、捕虜だった学者ナスィールッディーン・トゥースィーの進言で、モンゴルの費用で建てられた。半径4メートルの壁面四分儀、蔵書40万巻、中国とアンダルスから来た学者。惑星の運動を、プトレマイオスのエカントなしで説明する「トゥースィーの対」が作られた。コペルニクスの本に、同じ図と同じ文字が並んでいる(経路はまだ分かっていない)。
場所
37.39°N 46.24°E · イラン
関わった人(1)
ナスィールッディーン・トゥースィーAD1201年2月18日–AD1274年6月26日 · 建てさせた本文
1250年代、チンギス・ハンの孫フレグは、兄の大ハン、モンケの命を受けて西アジアに遠征した。1256年の暮れ、彼はイラン北部の山岳地帯に点在するニザール派(いわゆる暗殺教団)の城塞を攻め、その本拠アラムートを含む砦を次々と降伏させた(アラムートのニザール派)。城の中には、数十年にわたって教団の庇護のもとで暮らしてきた一人の学者がいた。トゥース出身のナスィールッディーン・トゥースィーである。天文学、数学、哲学、倫理学に通じた当代随一の学者で、教団の君主に仕えながら著作を重ねていた。彼が自ら教団の主に降伏を勧めたのか、捕らわれの身として連れ出されたのかは、史料によって描き方が違う。いずれにせよ彼はフレグに迎えられ、その側近となった。
1258年2月、フレグはバグダードを落とした(バグダードの陥落)。500年続いたアッバース朝のカリフは殺され、伝承によれば、王族の血を地に流さないよう、絨毯に巻かれて馬に踏ませられたという。街は略奪され、多くの書物がティグリス川に投げ込まれた。かつてバグダードの知恵の館が築いた学問の都は、ここで大きな傷を負った。トゥースィーはこの遠征にも同行していた。

翌1259年、トゥースィーの進言で、フレグは新しく興したイルハン国の最初の都、アゼルバイジャンのマラーガに天文台を築くことを命じた。モンゴルの君主たちは星占いを重んじており、正確な暦と天文表は占いに欠かせないという理屈が、莫大な費用を引き出した。だが実際に作られたのは、それをはるかに超える、天文学そのもののための研究施設だった。
天文台は町の西の丘の上に築かれ、敷地は東西300メートルあまりに及んだ。中心には円形の主塔が建ち、子午線に沿って立てた石の壁に目盛りを刻んだ、半径4メートルを超える壁面四分儀が据えられた。太陽や星が南中する瞬間の高さを、これで精密に測る。ほかにも大型の渾天儀や方位を測る環など、多くの観測器具が作られた。器具の設計と製作を担ったのは、ダマスカスから招かれたムアイヤドゥッディーン・ウルディーで、彼は器具の作り方を詳しく記した論考を残している。天文台には図書館が付属し、その蔵書は40万巻に及んだと伝えられる。バグダードなどから集められた書物も含まれていたという。運営のために宗教寄進財(ワクフ)から恒常的な収入が割り当てられ、天文台は一人の君主の気まぐれを超えて続く制度として作られた。

ここには各地から学者が集まった。のちに光学や地理学でも知られるクトゥブッディーン・シーラーズィー、論理学者のナジュムッディーン・カズウィーニー、そして中国から来た傅孟質と考えられる人物もいた。モンゴル帝国という巨大な枠組みの中で、イスラームの天文学と中国の暦法が同じ場所で出会ったのである。同じころ、クビライ(フビライ・ハン)の宮廷にはペルシアの天文学者が観測器具の模型を携えて赴いており、のちに郭守敬が作る授時暦(1281年)に、西方の天文学が何らかの影響を与えたかどうかが研究者の間で論じられている。
12年に及ぶ観測の成果は、1272年ごろ、ペルシア語の『イルハン天文表』にまとめられた。太陽・月・惑星の位置を計算するための表で、中国やウイグルの暦との換算の方法まで添えられていた。もっとも、観測期間が惑星の一巡に足りなかったため、表の多くは過去の観測にも頼っており、実際の精度は期待されたほどではなかったとも指摘されている。
マラーガの名を天文学史に残したのは、むしろ理論の仕事だった。2世紀のプトレマイオスが『アルマゲスト』(『アルマゲスト』)で組み立てた惑星の模型は、観測とよく合ったが、その中に「エカント」という仕掛けがあった。惑星を運ぶ円の中心ではなく、別の点から見たときに惑星が等しい速さで回るようにする工夫で、天体は一様な円運動をするという古代以来の原則を、こっそり破っていた。イスラーム世界の天文学者たちは何世紀もこの矛盾に悩んでいた。

トゥースィーはその解決の鍵となる仕掛けを考え出した。大きな円の内側に、半分の半径の小さな円を接するように置き、小さな円を大きな円の内側で転がすと、小さな円の上の一点は、一直線の上を行ったり来たりする。円運動を組み合わせるだけで、直線の往復運動が作れるのである。のちに「トゥースィーの対」と呼ばれるこの工夫を使えば、エカントに頼らずに、一様な円運動だけで惑星の動きを説明できる。ウルディーも別の補助定理を考案し、マラーガの学者たちは新しい惑星模型を次々と提案した。その流れは、14世紀のダマスカスのイブン・アッシャーティルにまで受け継がれた。
1543年、ポーランドのコペルニクスは『天球の回転について』を出版し、太陽を中心に置く宇宙を示した。その中には、トゥースィーの対とまったく同じ図が描かれている。図に振られた点の記号の並びまで、アラビア語の写本と対応しているという指摘もある。月の運動の模型は、イブン・アッシャーティルのものと数値までほぼ一致する。コペルニクスがどうやってこれらを知ったのかは、まだ分かっていない。ビザンツの学者が訳したギリシア語の写本がイタリアに伝わり、そこで留学中のコペルニクスが目にしたのではないかという説が有力だが、独立に同じ工夫にたどり着いた可能性を主張する研究者もいる。

トゥースィーは1274年にバグダードで死に、天文台は息子たちが引き継いだ。だがイルハン国の都がタブリーズに移り、君主の関心と援助が薄れると、14世紀の初めには活動が途絶えた。建物はやがて崩れ、地震にも見舞われて、丘の上には礎石だけが残った。1970年代に発掘が行われ、円形の主塔の基礎や、四分儀の跡、図書館とみられる部屋の跡が確かめられた。いまは遺構が覆屋で保護されている。
マラーガは、多くの学者が国家の資金で集団で観測し、図書館を備えて研究を続ける「天文台」という制度の、早い例となった。2世紀のちの1420年代、ティムールの孫ウルグ・ベクがサマルカンドに築いた天文台(ウルグ・ベクの星表)は、その直系の後継者と言える。モンゴルの征服がもたらした破壊のすぐ隣で、モンゴルの資金によって、学問の新しい場が生まれたのである。