できごと

脚気とビタミンの発見

Beriberi and the discovery of vitamins
AD1910年
重要度 5
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国日本フランス領インドシナラタナコーシン朝(シャム)フィリピンAD1910年東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1910年の版図を描いています(8勢力)。

概要

白米ばかりを食べる海軍と陸軍で、脚気が猛威をふるった。明治の日本では、これを細菌の病と考える東大・陸軍と、食事の問題と考える海軍軍医の高木兼寛が対立した。高木が兵食に麦と洋食を混ぜて発症を止めても、原因物質は分からない。1910年、鈴木梅太郎が米糠から有効成分を取り出し、のちにオリザニンと名づけた。論文が日本語だったため、翌年ポーランドのフンクが独立に見つけた「ビタミン」の名が世界に残った。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

関わった人(1)

鈴木梅太郎AD1874年4月7日–AD1943年9月20日 · 取り出した

本文

脚気にかかると、足がむくみ、しびれ、力が入らなくなる。膝を叩いても足が跳ね上がらない。進むと心臓が弱り、急に死ぬことがある。日本では江戸時代の中ごろから都市で広がり、「江戸わずらい」と呼ばれた。参勤交代で江戸に出てきた武士がかかり、国元へ帰ると治ってしまう。原因は白米だった。玄米を精白すると糠が取れるが、そこにビタミンB1(チアミン)が含まれている。おかずが乏しく、白米ばかりを大量に食べる暮らしでは、これが足りなくなる。江戸では精米した白米が普及していたが、地方では玄米や麦飯を食べることが多かった。

明治の軍隊は、兵に白米を腹いっぱい食べさせた。貧しい農村から来た若者にとって、それは大きな魅力であり、兵を集める売り物でもあった。そして脚気が大量に出た。海軍では1878年、兵員約4500人のうち1400人あまりが脚気にかかった。1882年から翌年にかけて、練習艦「龍驤」が272日の遠洋航海から戻ると、乗員376人のうち169人が脚気にかかり、25人が死んでいた。

ドラモンドが「ビタミン」の表記と分類を定めた1920年の論文
ドラモンドが「ビタミン」の表記と分類を定めた1920年の論文Wikimedia Commons Jack Drummond · Public domain

海軍の軍医、高木兼寛は薩摩の出身で、ロンドンのセント・トーマス病院の医学校で5年間学んだ人である。そこで身につけたのは、患者を観察し、数を数えて比べる英国流の医学だった。彼は脚気の出方を調べ、いくつかのことに気づいた。士官には少なく、下士官や水兵に多い。洋食を食べる者には少ない。監獄では、麦飯を食べる囚人に少ない。高木は、原因は食事にあると結論した。当時の栄養学の枠組みの中で、彼はタンパク質と炭水化物の割合が悪いのだと考えた。向かう方向は正しかったが、説明は正しくなかった。

1884年、高木は明治天皇に直接訴えて予算を得たと伝えられ、軍艦「筑波」に龍驤と同じ航路をたどらせる実験を行った。食事にはパンや肉、練乳を増やした。287日の航海で、脚気にかかったのは14人、死者は出なかった。しかもその14人は、支給された洋食を嫌って食べなかった者たちだったという。同時に比べる対照の組を置いていない点で、実験としては不完全だが、結果ははっきりしていた。海軍は兵の食事を麦を混ぜた飯に改め、脚気は数年のうちにほぼ姿を消した。

鈴木梅太郎の肖像
鈴木梅太郎Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

陸軍は、この方法を採らなかった。陸軍の軍医たちは、当時世界の先端だったドイツ医学で教育されていた。細菌学の全盛期である。ロベルト・コッホが結核菌やコレラ菌を見つけ、病気には目に見えない原因の菌がいる、という考えが医学を席巻していた。脚気もまだ見つかっていない菌による伝染病だろう、というのが、東京大学医学部と陸軍の軍医部の主流の考えだった。その論客の一人が、陸軍軍医の森林太郎、のちの作家森鷗外である。森はミュンヘンでペッテンコーファーに、ベルリンでコッホに学んで衛生学の専門家として帰国していた。彼は高木の説を、統計の扱いが粗く、理屈の裏付けを欠くと批判した。高木の説明が誤っていたのは事実であり、その批判には当時の科学の水準から見て筋の通る部分もあった。しかし、原因は分からないが麦飯で防げる、という目の前の事実は採り入れられなかった。

その代価は大きかった。日清戦争では、陸軍で約4万人が脚気にかかり、4000人前後が死んだ。戦闘で死んだ者は1000人ほどだったとされる。日露戦争では、陸軍の脚気の患者が25万人、死者は2万7000人あまりにのぼったとされ、戦死者の数の半分を超えた。麦飯を食べていた海軍では、脚気による死者はごくわずかだった。数字は資料によって幅があるが、差は歴然としている。ただし陸軍でも、現場の部隊長の判断で麦飯を出し、脚気を抑えた例があったことも知られている。

日清戦争に関わる図版:旅顺海军公所
日清戦争Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1908年、陸軍は臨時脚気病調査会を設け、陸軍の医務の長だった森がその中心に立った。調査会は長い議論の末、1920年代になって、脚気の原因はビタミンB1の不足であると認めることになる。

その間に、実験室の側から答えが出ていた。鈴木梅太郎(鈴木梅太郎)は1874年、静岡の農家に生まれ、東京帝国大学で農芸化学を学び、ベルリンでタンパク質の研究者エミール・フィッシャーのもとに留学した。帰国した彼が研究の題材に選んだのは、日本人の主食である米だった。1910年、鈴木は米糠から、脚気に効く成分を取り出すことに成功した。白米だけで飼うと脚気に似た症状を起こす鳥を使って、その効き目を確かめた。この年の12月、東京化学会で発表し、のちに稲の学名にちなんで「オリザニン」と名づけた。鈴木は、この物質はごく微量で生命に欠かせない、タンパク質、脂肪、炭水化物、ミネラルのほかに、こうした栄養素が存在する、と主張した。

ところが世界に残った名前は、別のものだった。1911年から翌年にかけて、ロンドンのリスター研究所にいたポーランド出身の生化学者カジミール・フンクが、同じように米糠から有効な物質を取り出し、「生命に必要なアミン」という意味で「ビタミン」と名づけた。のちに、この種の物質がすべてアミンではないと分かり、綴りの末尾が一字落ちて、いまの形になった。鈴木の発表は早かったが、論文は日本語で書かれていた。1912年に出たドイツ語の論文では、これは新しい栄養素だという肝心の一文が抜け落ちていた。訳した人の判断なのか、単純な脱落なのかは分かっていない。オリザニンという名前も、稲だけの話のような印象を与えた。この経緯は、日本の科学史でしばしば教訓として語られる。ただし、鈴木の抽出物も純粋なものではなく、ビタミンB1を初めて結晶として取り出したのは1926年、オランダのヤンセンとドナートである。誰が発見者なのかは、単純には決められない。

1929年のノーベル生理学・医学賞は、オランダ領東インドで白米を与えた鶏の神経の病を観察したエイクマンと、イギリスのホプキンズに贈られた。鈴木も、フンクも、高木も受けていない。1936年には、アメリカのウィリアムズがビタミンB1の構造を決め、合成に成功した。日本では戦後も脚気がときおり現れ、1970年代には、清涼飲料やインスタント食品に偏った食事をする若者の間で再び報告されている。

脚気の歴史が問いかけるのは、原因の物質が分かるまで対策を取らないという態度が、どれほどの命を失わせたかということである。数を数えて比べる疫学の知恵と、原因を突き止める実験室の科学。どちらも欠かせないが、どちらを先に立てるべきかという問いは、新しい病気が現れるたびに繰り返し顔を出す。

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