モルヒネの単離
概要
薬草は、効く成分と効かないものの混合である。どれが効いているのか、量をどう測るのかが分からない。二十歳の薬剤師見習いゼルチュルナーが、アヘンから白い結晶を取り出した。犬に与えると眠り、自分と三人の若者で試すと、危うく死にかけた。夢の神の名からモルフィウムと名づけた。植物から取り出された最初のアルカロイドである。以後、キニーネ、カフェイン、ニコチン、アトロピンが次々に単離され、薬が量で処方できるものになった。
場所
51.72°N 8.76°E · ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州
関わった人(1)
フリードリヒ・ゼルチュルナーAD1783年6月19日–AD1841年2月20日 · 単離した本文
薬草は、効く成分と効かない成分の混ぜ物である。アヘンは、ケシの未熟な実に傷を付けてにじみ出た乳液を乾かしたもので、その中には何十種類もの物質が含まれている。どれが痛みを止め、眠りを誘っているのかは分からない。しかも、産地や年や収穫の時期によって効き目の強さが変わる。同じ量を飲ませても、ある時は痛みが取れず、ある時は患者が死ぬ。アヘンをアルコールに溶かしたアヘンチンキを何滴、と数えるのが、当時の医者にできる精いっぱいだった。
この混ぜ物から、効く成分だけを取り出したのが、フリードリヒ・ゼルチュルナー(フリードリヒ・ゼルチュルナー、1783〜1841年)である。ドイツ西部のパーダーボルン近郊ノイハウスに、司教の宮廷に仕える測量技師の子として生まれた。十代で父を亡くし、宮廷の薬局に見習いとして入った。大学で学んだことは無く、使えるのは薬局にある器具と薬品だけだった。

19世紀の初め、彼は店の仕事の合間にアヘンを調べ始めた。アヘンを湯に溶かして抽出し、そこにアンモニアを加えると、白い結晶が沈んだ。当時、植物に含まれる有効な成分は酸の性質を持つものだと考えられていた。ところがゼルチュルナーが見つけた物質は、酸と結びついて塩を作る、塩基の性質を持っていた。当時の常識に反する発見で、最初はなかなか信じてもらえなかった。
彼はその物質の働きを、動物で確かめた。犬に与えると深く眠り、量を増やすと死んだ。そして、自分自身でも試した。のちに1817年の論文で報告したところでは、彼と17歳前後の三人の若者が、ごく少量ずつを飲んだ。最初は顔が赤らむ程度で、効かないと思ってさらに飲み足し、合わせて今日の基準で非常に危険な量に達した。やがて激しい吐き気と、意識のかすみと、深い眠気が襲い、若者たちは床に倒れた。事の重大さに気づいたゼルチュルナーは、酢を飲ませて吐かせ、なんとか全員が命拾いした。彼は、この恐ろしい物質の作用をこれ以上若者で試す気にはなれない、という趣旨を書き残している。いまの基準で見れば、許されない人体実験である。

ゼルチュルナーは、この物質を、ギリシア神話の夢の神モルペウスにちなんでモルフィウムと名づけた。眠りをもたらす力があるからである。のちにフランスでモルフィンと呼ばれ、それが国際的な名前になった。日本語のモルヒネは、ドイツ語やオランダ語の発音に由来する。
最初の報告は1805年と1806年に出たが、ほとんど注目されなかった。植物に塩基があるという主張が理論に合わなかったうえ、載った雑誌が目立たず、書いたのは地方の無名の薬剤師だった。1817年、ゼルチュルナーはより詳しい論文を書き、植物には塩基性の新しい種類の物質が含まれている、と強く主張した。これがフランスの化学者ゲイ=リュサックの目に留まった。ゲイ=リュサックは論文をフランス語に訳して自分の編集する化学の雑誌に載せ、ほかの植物についても同じ探索をすべきだと呼びかけた。これで火がついた。
その後の十数年で、植物から次々に有効な成分が取り出された。1818年には、パリのペルティエとカヴァントゥが毒草からストリキニーネを取り出し、1820年にはキナの樹皮からキニーネを取り出した(キニーネを取り出す)。キニーネはマラリアの治療を変え、のちにヨーロッパ人がアフリカの内陸へ入り込むことを可能にした。1819年ごろにはドイツのルンゲがコーヒー豆からカフェインを取り出し、1828年にはタバコからニコチンが、1830年代の初めにはベラドンナからアトロピンが取り出された。こうした植物の塩基は、「アルカリに似たもの」という意味でアルカロイドと呼ばれるようになる。名づけたのはドイツの薬剤師マイスナーで、1819年のことである。
薬は、量で処方できるものになった。アヘンチンキ何滴、という代わりに、モルヒネ何ミリグラム、と書けるようになる。同じ量を与えれば、同じように効く。どの成分がどの働きをするのかを確かめ、量を決めて使う。近代の薬理学は、ここから出発した。
効き目がはっきりした薬は、それだけ強い依存も生んだ。1853年ごろ、スコットランドのアレクサンダー・ウッドとフランスのプラヴァズが、皮下に薬を注射する注射器を作った。モルヒネを直接体に入れられるようになると、効き目は速く強くなり、依存もまた強くなった。アメリカの南北戦争や普仏戦争では、負傷兵の痛みを和らげるためにモルヒネが大量に使われ、戦後には依存に苦しむ人々が社会の問題になった。同じ頃、アヘンをめぐっては、イギリスと清が戦争を起こしている(アヘン戦争)。

1874年、イギリスの化学者がモルヒネからジアセチルモルヒネを合成した。1898年、ドイツのバイエル社がこれを咳止めの薬として売り出す。商品名はヘロインといった。モルヒネより安全で癖にならない、という触れ込みだった。バイエルは同じ時期にアスピリンも売り出している。片方はいまも薬局の棚に並び、もう片方は世界中で禁じられている。
ゼルチュルナー本人は、その後ハーメルンで自分の薬局を営んだ。1831年には、フランス学士院から人類に恩恵をもたらした業績に贈られるモンティヨン賞を受けた。賞金は2000フランで、生前に受けたほとんど唯一の公の評価だった。晩年は痛風とうつに苦しみ、痛みを和らげるために自らモルヒネを用いていたとも伝えられる。1841年、57歳で世を去った。

痛みを止める力と、人を縛る力は、同じ分子の裏と表である。モルヒネはいまも、がんの痛みなどを和らげる大切な薬として使われ、世界保健機関の必須の医薬品にも挙げられている。その一方で、20世紀の終わりからは、医療用の強い鎮痛薬の乱用がアメリカで多くの死者を出した(オキシコンチン)。薬草の混ぜ物から一つの結晶を取り出した若い薬剤師の仕事は、薬の力を量で扱う時代の扉を開き、同時にその力の危うさも、量のはっきりした形で人々の前に差し出した。