電磁場の理論
概要
電気と磁気を一組の式にまとめると、波が出てくる。その速さが測ってあった光の速さと一致した。光が電磁波だと分かる。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ジェームズ・クラーク・マクスウェルAD1831年6月13日–AD1879年11月5日 · 著者本文
19世紀の初め、電気と磁気は別々の現象として調べられていた。1820年、電流の流れる導線のそばで方位磁針が振れることが見つかり、二つが結びついているらしいと分かる。1831年、ロンドンのマイケル・ファラデーは、磁石を動かすとコイルに電流が流れることを発見した(電磁誘導の発見)。電気が磁気を生み、磁気が電気を生む。その関係を彼は、空間に張りめぐらされた「力線」という像で考えた。
ファラデーは鍛冶屋の息子で、正規の教育をほとんど受けておらず、数式をほとんど使わなかった。学界の主流は、離れた物どうしが空間を飛び越えて直接に力を及ぼし合うと考え、精密な数学で理論を組み立てていた。ファラデーの力線は、直観的すぎる図として軽く見る向きもあった。

ジェームズ・クラーク・マクスウェルは1831年、エディンバラの地主の家に生まれた。ファラデーが電磁誘導を見つけた年になる。10代で論文を書き、ケンブリッジで数学を修めた。20代の半ばで最初に取り組んだのが、ファラデーの力線を数式で表すことだった。彼はファラデーの著作を読み込み、その図の中に、すでに数学的な考え方が含まれていると見抜いていた。
1861年から62年にかけての論文で、マクスウェルは空間を満たす目に見えない媒質を考え、小さな渦と、その間で回る歯車のような粒子の機械仕掛けで電磁気を説明しようとした。奇妙な模型だった。だがそこから、新しい項が一つ出てきた。電流が流れていない空間でも、電場が変化すれば、それが電流と同じように磁場を作る。この項を加えると、方程式の組から波が出てくる。電場の変化が磁場を作り、磁場の変化が電場を作る。互いに生み出しながら、空間を伝わっていく。
その波の速さを、彼は計算した。必要な数は、ドイツの物理学者たちが電気の単位を比べて測った値から取れた。出てきたのは、秒速31万kmほど。フランスのフィゾーが歯車を使って測っていた光の速さと、ほとんど同じだった。彼は論文に、光は電気と磁気の現象を起こしているのと同じ媒質の横波だという推論を避けることはほとんどできない、と書いている。
1865年に出た「電磁場の動力学的理論」で、マクスウェルは機械仕掛けの模型を取り払った。渦も歯車も無しに、電場と磁場そのものの関係だけで理論を組み直したのである。式は20に及び、いまの教科書が載せる4つの簡潔な形にまとめ直されるのは、1880年代になってからだった。こうして、別々の現象として扱われてきた電気と磁気と光が、一つの理論になった。ニュートンの万有引力が天と地をつないだのに並ぶ統一だった。
それでも、すぐに受け入れられたわけではない。目に見えない波を予言する理論を、確かめた者はまだいなかった。マクスウェルは1873年に大部の教科書を出し、ケンブリッジに新設された実験物理学の研究所の初代の長になった。そして1879年、病のため48歳で亡くなる。自分の予言が確かめられるのを見ることはなかった。
ドイツのヘルツが、火花を飛ばす装置で電磁波を作り、離れた場所の輪で受け止めて、それが光と同じように反射し屈折することを確かめたのは、1888年。マクスウェルの死から9年後だった。この発見は何の役に立つのかと学生に問われたヘルツは、何の役にも立たない、マクスウェルが正しかったことを示すだけだと答えた、と伝わる。
その数年後、イタリアの青年グリエルモ・マルコーニが電磁波で信号を送る実験を始めた。1901年には大西洋を越えて無線の信号が届く(マルコーニの大西洋横断無線)。ラジオ、テレビ、レーダー、携帯電話。いま身の回りを飛び交う電波はすべて、この方程式が予言した波になる。
方程式の影響は、技術にとどまらなかった。マクスウェルの理論では、光の速さは方程式の中の定数として決まり、誰から見ても同じになるはずだった。これを動く物体の力学とどう両立させるか。若いアインシュタインはその問いから、1905年に特殊相対性理論を導いた。アインシュタインは書斎に、ニュートン、ファラデー、マクスウェルの肖像を掲げていたという。物理学者ファインマンは、人類の歴史を長い目で見れば、19世紀で最も重要な出来事はマクスウェルによる電磁気の法則の発見だと判断されるだろう、と述べている。