できごと

ロジャー・ベーコン『大著作』

Opus Majus
AD1267年
重要度 5
モンゴル帝国北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民トゥアレグの遊牧諸部族クマン(キプチャク)ベルベル諸部族ブワイフ朝マムルーク朝ファーティマ朝サーミ神聖ローマ帝国そのほかのルーシ諸公国ノルウェームワッヒド朝ノヴゴロド公国ウラジーミル・スーズダリ公国ポーランド王国フランス王国スウェーデンブルガール可汗国東ローマ帝国アンジュー帝国ハンガリー王国ガーリチ=ヴォルィーニ公国ケルト系の諸王国キーウ公国IbaditesComté de Toulouseリトアニア大公国デンマークLeónブルゴーニュポルトガルスコットランドヴェネツィア共和国Dutchy of BeneventoAD1267年オックスフォード
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1267年の版図を描いています(36勢力)。

概要

フランシスコ会士がオックスフォードとパリで、教皇クレメンス4世に頼まれて、1年で書いた。840ページ。「知識の四つの障害」(権威、習慣、偏見、無知の隠蔽)。「経験科学(scientia experimentalis)」。数学が全ての基礎。光学(レンズ、虹)、暦の改革(グレゴリオ暦の300年前に、誤りを指摘した)、火薬(ヨーロッパで最初の記述)。飛ぶ機械と自走する車の予想は、同じ頃の書簡に書いた。教皇は翌年死んで、読まれなかった。「驚異の博士」。

場所

オックスフォード
51.75°N -1.26°E · イングランド

関わった人(1)

ロジャー・ベーコンAD1220年頃–AD1292年頃 · 書いた

本文

13世紀のヨーロッパの大学では、学問とは、権威ある書物を読み、注釈し、論じ合うことだった。聖書と教父、そしてイスラーム世界を経てラテン語に訳されたアリストテレス。新しく入ってきたギリシアとアラビアの知識に、学者たちは熱中していた。その中で、書物ではなく自分の目と手で確かめよ、と繰り返し書いた修道士がいる。イングランドのロジャー・ベーコンである。

ベーコンは1210年代か1220年頃に生まれ、オックスフォードで学んだあと、1240年代にパリ大学でアリストテレスを講じた。やがて光学や数学、言語の研究にのめり込み、高価な書物や器具、写字生に私財をつぎ込んだ。1250年代の後半にフランシスコ会に入るが、清貧を掲げるこの修道会では、修道士は財産を持てず、上長の許しなく著作を世に出すこともできなかった(フランシスコ会則の認可)。研究は行き詰まった。

ロジャー・ベーコンの肖像
ロジャー・ベーコンの肖像Wikimedia Commons Bacon, Roger, 1214?-1294 · Public domain

道を開いたのは、ローマからの一通の手紙だった。南フランス出身の法律家で、枢機卿だったころにベーコンの構想を聞いていたクレメンス4世が、教皇になったあとの1266年6月22日、その著作を送るよう命じたのである。修道会のいかなる禁令にも関わらず、秘密に、遅滞なく、と手紙にはあった。だが、ベーコンはまだその本を書いていなかった。教皇は費用を出してくれない。彼は借金をして羊皮紙と写字生を工面し、1267年、およそ一年で書き上げた。それが『大著作』である。続けて、その要約と補いにあたる『小著作』と、序論にあたる『第三著作』も書いた。『第三著作』の中で彼は、この学問のために20年で2000ポンドを超える金を使ったと述べている。原稿は、彼が育てた若い弟子ジョンに持たせてローマへ送られた。

『大著作』は七部から成る。第一部は、人が真理に届かない原因を論じる。弱く値打ちの無い権威に従うこと、長い習慣、無知な大衆の意見、そして自分の無知を隠すために知恵を飾ること。この四つが人間のあらゆる誤りの源だ、とベーコンは言う。アリストテレスでさえ誤りうる。第三部では言語を扱い、聖書もアリストテレスも、ギリシア語やヘブライ語、アラビア語の原典に当たらなければ正しく読めない、当時のラテン語訳は誤りだらけだ、と訴えた。

ベーコンによる光学の研究図
ベーコンによる光学の研究図Wikimedia Commons Public domain

第四部は数学で、ベーコンはこれをあらゆる学問の門であり鍵であると呼んだ。天文の計算をもとに、ユリウス暦の1年が実際の太陽の1年より少し長く、そのずれが積もって、春分の日が暦の上で大きく前にずれていることを指摘し、復活祭の日取りが狂っていると教皇に改暦を促した。暦が改められるのは300年以上のちの1582年である(グレゴリオ暦への改暦)。地理の章では、大地が球であることを前提に、スペインの西の海とインドの東の端との間は、それほど広くないかもしれないと論じた。この一節は15世紀初めにフランスの神学者ピエール・ダイイの『世界像』に取り込まれ、その本をコロンブスが熱心に読み、書き込みをしている。

第五部の光学は、イスラーム世界のイブン・アル=ハイサムの研究と、オックスフォードの先達グロステストの仕事を受け継ぐ。目の仕組み、光の反射と屈折を論じ、虹は空に浮かぶ無数の雨粒が光を曲げて作るもので、その高さは地平線からおよそ42度を超えないと測った。凸レンズの一片を文字の上に置けば、老人や目の弱い人にも字が大きく見えるとも書いている。イタリアで眼鏡が作られるのは、その20年ほどのちである(眼鏡の発明)。

ロジャー・ベーコンの肖像
ロジャー・ベーコンの肖像Wikimedia Commons Bacon, Roger, 1214?-1294 · Public domain

第六部が、のちに最もよく引かれる「経験の学」である。論証は問いに結論を与えるが、経験によって確かめるまでは、心は確信に安らがない、とベーコンは書いた。経験の学は、ほかの学問が出した結論を確かめ、ほかの学問が知らない真理を見つけ出す。その例として、磁石の性質や、硝石を使って閃光と雷のような音を出す子どもの玩具に触れている。これはヨーロッパで火薬に触れた最も早い記述の一つとされる。最後の第七部は道徳哲学で、すべての学問はよく生きるためにある、という結論で全体が閉じられる。

ベーコンの「経験」を、そのまま近代の実験科学と重ねることはできない。彼にとって経験には、神が与える内なる照らしも含まれていた。同じ著作には占星術への信頼や錬金術への期待、反キリストの到来への不安も書き込まれている。人が乗らずに走る車や空を飛ぶ機械を夢想した有名な文章も、『大著作』ではなく、同じ頃の書簡として伝わるものである。それでも、権威よりも自分で確かめることを、これほど強く体系的に主張した人は、13世紀には他に見当たらない。

オックスフォードで星を観測するベーコンを描いた19世紀の銅版画
ロジャー・ベーコンWikimedia Commons Jan Verhas · Public domain

本が届いたかどうかは分からない。クレメンス4世は1268年11月に死に、『大著作』を読んだという記録は残っていない。教皇の後ろ盾を失ったベーコンは、14世紀の年代記によると、1270年代の後半に「疑わしい新奇な説」のために修道会から幽閉されたというが、確かなことは分からない。1292年頃、オックスフォードで世を去った。のちに彼は「驚異の博士」と呼ばれ、近代の人々は、魔術師とも、早すぎた科学者とも語った。どちらの像も、半分ずつ当たっている。

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