概要
サマセット。オックスフォード(グロステストの影響)、パリで教えた(アリストテレスを講義した最初の一人)。1257年頃、フランシスコ会に。会は出版を禁じ、ベーコンは教皇に直接、秘密に、『大著作』『小著作』『第三著作』を送った。経験、数学、光学、言語(ギリシア語とヘブライ語の文法)、暦。眼鏡と望遠鏡を予想した。火薬。1278年頃、「新奇な考え」で会に幽閉された(10年、と伝える。確かでない)。「驚異の博士」。真鍮の話す頭を作った、という伝説。
関わったできごと(1)
ロジャー・ベーコン『大著作』AD1267年 · 書いた本文
1214年か1220年頃、イングランドのイルチェスター(サマセット)。裕福な家(内乱で財産を失った、と自分で書いた)。オックスフォード。パリ(1237〜47年頃)、文学部の教師。アリストテレスの『自然学』『形而上学』を講義した最初の一人(1210年と1215年にパリで禁じられていたのが、1240年代に緩んだ)。
1247年頃、パリで、何かが起きた。「私は、20年間、言語と学問の研究に、2000リーブル以上を費やした。写本、実験の道具、天文表、器具、助手、若い人の教育に」。オックスフォードへ戻った(と考えられる)。ロバート・グロステスト(リンカーンの司教、オックスフォードのフランシスコ会の学院の初代教師。光の形而上学、実験、数学、ギリシア語)の著作と、その弟子アダム・マーシュに学んだ。ベーコンはグロステストを「唯一、学問を知っていた人」と讃えた(直接の弟子だったかは分からない)。
1256〜57年頃、フランシスコ会に入った。会の規律。ボナヴェントゥラが総長(1257年)で、会は学問より祈りへ、そして「新しい説」を警戒した。ベーコンは上長の許可なしに書くことを禁じられた(と自分で言う)。10年、書けなかった。
1264年、枢機卿ギー・ル・グロ・ド・フルクが、ベーコンの評判を聞いて、著作を求めた。1265年2月、フルクが教皇クレメンス4世になった。1266年6月22日、教皇の親書。「あなたが、以前、私に伝えた、あの著作を、秘密に、遅滞なく、送ってほしい。修道会のいかなる禁止にも、いかなる上長の命令にも関わらず」。
ベーコンは、まだ書いていなかった。金を借りた(家族に頼んで、断られた)。写字生を雇った。1年か2年で、『大著作』『小著作』『第三著作』。ローマへ送った。1268年11月29日、クレメンス4世が死んだ。反応の記録はない。
その後。『哲学研究概要』(1271年、当時の学問と聖職者への激しい批判)。『数学の技法概要』。『ギリシア語文法』『ヘブライ語文法』(断片)。『鏡の観点について』。『自然の秘密の技術と魔術の無力について』(火薬、飛行機械、自動の車。真の技術と、偽の魔術を分ける)。
1277年、パリ司教タンピエの断罪。同じ年、フランシスコ会の総長ジロラモ・ダスコリ(後の教皇ニコラウス4世)が、ベーコンを「若干の疑わしい新奇な説(アリクアス・ノウィターテス・スペクタス)」で有罪にして、投獄した、と14世紀初めのフランシスコ会の年代記(『24人の総長の年代記』)が書く。占星術と、ヨアキム主義(世界の終わりと霊の時代の予言)に関わる、と考えられる。何年投獄されたかは分からない(「14年」は後の誇張)。
1292年頃、『神学綱要』(未完)。「大衆は堕落していて、少数の賢者しかいない」。同じ年頃、オックスフォードで死んだ。フランシスコ会の教会に葬られた(場所は失われた)。
「驚異の博士(Doctor Mirabilis)」(後世の呼び名)。
伝説。真鍮の頭を作って、「時が来た。時が過ぎた」と喋らせようとして、助手が居眠りして逃した(グリーンの喜劇『修道士ベーコンと修道士バンゲイ』、1590年)。魔術師。錬金術で長生きした。
近代の評価。18〜19世紀「近代科学の先駆者、中世の教会に迫害された天才」(実際には、教皇に守られて書いた)。20世紀「彼は中世の人で、占星術と錬金術と、聖書の預言を信じていた。彼の『経験』はアリストテレスの『経験』に近い」(デュエム、クロンビー、リンドバーグ)。両方が本当。彼は、権威を疑えと言い、数学と観察を求め、そして自分が世界の終わりが近いと信じていた。