人物

クロード・ブルジュラ

Claude Bourgelat
AD1712年11月27日 – AD1779年1月3日(享年66)
フランス重要度 3

概要

リヨンの裕福な家に生まれ、法律を学び、弁護士を経て、騎兵隊に入った。除隊後、リヨンの乗馬学校を引き継ぎ、馬の解剖と運動を研究した。ディドロとダランベールの百科全書に、馬術と馬の項目を書いている。繰り返す牛疫を見て、家畜の医学を教える学校の必要を説き、財務総監ベルタンの支援で1761年に認可を得た。教育は厳格で、蹄鉄工の徒弟ではなく、解剖から学ばせた。校長として、パリのアルフォール校も指導した。

関わったできごと(1)

獣医学校AD1762年 · 開いた

本文

クロード・ブルジュラは1712年11月27日、フランス南東部の商業都市リヨンの裕福な家に生まれた。法律を学んで弁護士になったが、まもなくやめた。法廷での弁論が性に合わなかったとも伝えられるが、はっきりした理由は分からない。彼は騎兵隊に入り、そこで馬と深くかかわるようになった。

1740年、彼はリヨンの乗馬学校の経営を引き継いだ。当時「アカデミー」と呼ばれたこの種の学校は、貴族の子弟に乗馬や剣術、舞踏、数学を教える場だった。ブルジュラは、馬に正しく乗るには馬の体を知らなければならない、と考えた。そこで馬を解剖し、その動きを骨と筋肉の仕組みから説明しようとした。1744年に馬術の書を、1750年代には馬の体と病気を論じた書を出し、その名はパリの知識人たちにも届いた。ディドロとダランベールの『百科全書』には、馬術と馬についての項目を寄せている。啓蒙の知識人たちとのこのつながりが、のちに国の後押しを得るときに効いた。

『百科全書』に関わる図版:Encyclopedie de D'Alembert et Diderot - Premiere Page - ENC 1-NA5
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18世紀のフランスでは、牛疫がくり返し流行した。牛の伝染病で、一つの地方の牛が数か月で消えることもあった。牛は畑を耕し、荷を運び、乳と肉をもたらす。それを失えば農民は破産し、地方は荒れる。だが手当てをする知識も人もなかった。頼れるのは蹄鉄を打つ職人や羊飼い、経験のある農民、そして祈りやまじないだった。

ブルジュラは、動物の病気を扱う、教育を受けた専門家が要る、と主張した。そしてその学校は国が作るべきだ、と。農民が牛を失えばその家が滅び、一つの地方が牛を失えば国が税収を失う、という趣旨の理屈で、彼は財務総監のアンリ・ベルタンに働きかけ続けた。農業の振興に熱心だったベルタンは、これを受け入れた。

1761年8月4日、国王ルイ15世の認可が下り、翌1762年2月、リヨンの古い宿屋を改装した建物で、世界で最初の獣医学校が開かれた(獣医学校)。最初の学生はわずか数人だった。その年のうちに、学生たちは牛の病気がはやっている土地へ送られ、現場で手当てにあたった。

教え方は厳格だった。蹄鉄職人の徒弟のように親方の手さばきを見て覚えるのではなく、まず解剖から始める。馬だけでなく牛、羊、豚、犬の体を比べ、病気とその治し方、飼い方、繁殖、飼料、そして蹄鉄の打ち方まで、数年かけて学ばせた。学生の多くは地方から選ばれて送られてきて、学び終えると故郷へ帰り、その土地の家畜を診た。

1765年には、パリ近郊のアルフォールに二つ目の学校ができた。ブルジュラは両校の監督を兼ね、パリに近いアルフォールが次第に中心になっていった。彼は厳しく、扱いにくい人物だったと伝えられ、教師たちとしばしば衝突した。人の医学の医師たちからは、動物の医学など学問ではないという反発も受けたが、彼は正面から言い返した。

学校はヨーロッパ中に広がった。開校から30年ほどのうちに、トリノ、コペンハーゲン、ウィーン、ハノーファー、ドレスデン、ブダペスト、ロンドン、マドリードと、同じ種類の学校が次々にできた。その多くは、リヨンやアルフォールで学んだ人々が作ったものである。ロンドンの獣医学校を開いたシャルル・ヴィアル・ド・サン=ベルも、リヨンで学んだ一人だった。

1779年1月3日、ブルジュラはパリで死んだ。66歳だった。

彼の医学の知識そのものは、当時の水準を出るものではなかった。血を抜く治療を多く用い、病気の原因の理解は、細菌が見つかるはるか以前のものだった。彼が成し遂げたのは、制度を作ったことである。動物の病気を治すのは、教えることのできる知識である。そしてそれを教える場を、国が持つべきである。この二つを、彼は形にした。

牛疫との闘いはその後も長く続いた。19世紀の終わりにはアフリカで大流行して牛の大半を奪い(アフリカの牛疫)、人々を飢えに追いやった。しかし世界の獣医たちが積み重ねた仕事のすえ、2011年、牛疫は根絶が宣言された(牛疫の根絶)。人の天然痘に次いで、人類が地上から消した二つ目の病気である。その年は、ブルジュラの学校が国王の認可を得てから、ちょうど250年目にあたった。リヨンの獣医学校はいまも郊外のマルシー・レトワールで学生を育てている。

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