ジェームズ・クラーク・マクスウェル
概要
電気と磁気を一組の式にまとめ、そこから出てくる波の速さが光と同じだと気づいた。光が電磁波だと分かる。電波もラジオもこの帰結になる。
関わったできごと(1)
電磁場の理論AD1865年 · 著者本文
1831年6月13日、スコットランドのエディンバラに生まれた。父は南西部のグレンレアに領地を持つ地主で、少年時代はその田舎屋敷で過ごした。何でも「どうなってるの」と聞いて回る子だったと伝えられる。8歳のとき、母が腹部のがんで亡くなった。

エディンバラの学校に入ると、田舎風の身なりと訛りから「まぬけ」とあだ名された。それでも14歳で、ピンと糸を使って楕円に似た曲線を描く方法を考え、論文にまとめた。少年がエディンバラ王立協会で発表するわけにいかず、大学の教授が代わりに読み上げたという。エディンバラ大学、ついでケンブリッジ大学に進み、1854年に数学の卒業試験を2番で通った。
最初の大きな仕事は、土星の環が何でできているかという懸賞問題だった。固い板なら引き裂かれ、液体なら波打って崩れる。数学で可能性を一つずつつぶし、無数の小さな粒がそれぞれ土星を回っているとしか考えられないと結論した。1859年に賞を得た。120年ほど後、探査機ボイジャーが近づいて撮った写真が、それを確かめることになる。

次に取り組んだのは気体だった。気体を無数の分子の集まりと考え、一つ一つの動きは追わず、速さがどう分布しているかを確率で表した。「マクスウェル分布」と呼ばれるこの考え方は、後にボルツマンが広げ、統計力学の出発点になる。熱の流れを逆にする小さな悪魔を考えた思考実験、「マクスウェルの悪魔」もこの人の創案である。
1861年には、世界で初めてカラー写真を見せた。赤、緑、青のフィルターを通して同じタータンのリボンを3枚撮り、それぞれ同じ色の光で重ねて投影した。人の目は3種類の色を感じる仕組みで色を見ている、という考えを実際に示すための実験だった。

いちばん大きな仕事は電気と磁気だった。マイケル・ファラデーは電気と磁気が互いに生み出し合うことを見つけ(電磁誘導の発見)、その間を「力線」が満たしているという絵で考えていた。数式を使わない人だった。マクスウェルはこの絵を数学の言葉に置き直し、1865年の論文で一組の方程式にまとめた(電磁場の理論)。
方程式を解くと、電気と磁気の揺れが空間を伝わっていく波が出てきた。計算したその波の速さは、実験で測られていた光の速さとほぼ同じだった。マクスウェルは、光はこの電磁的な波だと結論した。いま「マクスウェルの方程式」として教わる4本の式の形は、のちにヘヴィサイドらが整理したもので、本人の論文ではもっと多くの式で書かれていた。

穏やかで、信仰の篤い人だった。1858年にキャサリン・デュワーと結婚し、子は無かったが、夫婦で実験を手伝い合った。
1860年、ロンドンのキングズ・カレッジの教授になった。ここで、40歳上のファラデーと親しく言葉を交わしている。電磁気の主な論文は、このロンドン時代に書かれた。1865年には職を辞してグレンレアに戻り、領地を見ながら、理論の集大成となる『電気磁気論』(1873年)を書き進めた。グレンレアでは、雇い人たちと一緒に聖書を読む日課を欠かさなかった。

1871年、ケンブリッジ大学に新しくできた実験物理学の教授に迎えられ、キャヴェンディッシュ研究所を立ち上げた。この研究所からは、のちに電子や原子核、DNAの二重らせんの解明が生まれる。
1879年11月5日、腹部のがんで亡くなった。48歳。母も同じ病で、同じ年頃に死んでいる。予言した電磁波が実際に確かめられるのは、その9年ほど後、ドイツのヘルツの実験によってだった。それが無線(グリエルモ・マルコーニ)やラジオ、テレビ、携帯電話につながっていく。

生前、その理論を本当に理解した人は多くなかった。評価が定まったのは死後である。アインシュタインは、マクスウェルの仕事を、ニュートン以来、物理学が経験したもっとも深く実り多いものと呼んだ。相対性理論は、光の速さが誰から見ても同じだというマクスウェルの方程式の帰結を、真剣に受け取ったところから始まっている。