概要
ヴュルツブルク。ゾンマーフェルトの弟子。23歳で行列力学、25歳で不確定性原理、31歳でノーベル賞。ナチスの下でドイツに残り、ウラン・クラブ(原爆計画)の中心にいた。原爆を作ろうとして失敗したのか、わざと遅らせたのか、分からない。1941年、コペンハーゲンでボーアに会って、何を言ったか(『コペンハーゲン』の劇)。戦後、西ドイツの物理を再建した。
関わったできごと(1)
不確定性原理AD1927年3月 · 書いた本文
1901年、ヴュルツブルク。父はミュンヘン大学のビザンツ・ギリシア語の教授。ギムナジウムでギリシア語とピアノと数学。1919年、バイエルン・ソヴィエト共和国の鎮圧で、義勇軍で伝令をした。青年運動(ワンダーフォーゲル)。山を歩き、星を見た。
ミュンヘン大学、ゾンマーフェルト。博士の口頭試問で、実験物理のヴィーンに顕微鏡の分解能を問われて答えられず、最低の成績。1922年、ゲッティンゲンでボーアの講義を聞き、質問して、散歩に誘われた。1924〜25年、コペンハーゲン。1925年6月、ヘルゴラント。行列力学(ボルン、ヨルダンと)。1927年、不確定性原理。ライプツィヒ大学の教授、25歳。1932年のノーベル物理学賞(1933年に授与)。
ナチス。ユダヤ人の同僚が追放された。ハイゼンベルクは残った。「ドイツ物理学」のシュタルクが1937年、SSの新聞『黒い軍団』で彼を「白いユダヤ人」と書いた。母がヒムラーの母と知り合いで、ヒムラーが調べて、1938年、「相対性理論を教えてよいが、アインシュタインの名前は出すな」と許した。
1939年9月、ウラン・クラブ。ドイツの原爆計画の理論の中心。1941年9月、コペンハーゲン。ボーアと散歩した。ハイゼンベルクは「物理学者は原爆を作る道徳的な権利があるか」と言った(と自分で言った。ボーアは「彼はドイツが勝つと言い、ドイツの計画を私に協力させようとした」と受け取った)。マイケル・フレインの『コペンハーゲン』(1998年)。1942年6月、シュペーアに報告。「原爆は可能だが、数年かかる」。計画は原子炉に縮んだ。1945年4月、ハイガーロッホの地下の実験炉。アメリカのアルソス部隊が押収した。
1945年7月〜1946年1月、イギリスのファーム・ホールに、ドイツの物理学者10人が拘束された。盗聴されていた。8月6日、広島。ハイゼンベルクは初め信じず、1週間で正しい計算をした。「我々は作りたくなかったから作らなかった」(ヴァイツゼッカー)という話が、その夜、作られた。テープは1992年に公開された。
戦後、ゲッティンゲン、ミュンヘン。マックス・プランク物理学研究所の所長。西ドイツの科学政策。1957年、ゲッティンゲン宣言(ドイツの核武装に反対)。統一場理論(失敗)。『部分と全体』(1969年、対話形式の自伝)。1976年2月1日、ミュンヘンで死んだ。74歳。
彼が原爆を作らなかったのは、作れなかったのか、作らなかったのか。本人は両方に取れることを言い続けた。