人物

ヴェルナー・ハイゼンベルク

Werner Heisenberg
AD1901年12月5日 – AD1976年2月1日(享年74)
ドイツ重要度 5

概要

ヴュルツブルク。ゾンマーフェルトの弟子。23歳で行列力学、25歳で不確定性原理、31歳でノーベル賞。ナチスの下でドイツに残り、ウラン・クラブ(原爆計画)の中心にいた。原爆を作ろうとして失敗したのか、わざと遅らせたのか、分からない。1941年、コペンハーゲンでボーアに会って、何を言ったか(『コペンハーゲン』の劇)。戦後、西ドイツの物理を再建した。

関わったできごと(1)

不確定性原理AD1927年3月 · 書いた

本文

ヴェルナー・ハイゼンベルクは、1901年12月5日、ドイツのヴュルツブルクに生まれた。父アウグストはビザンツのギリシア語を研究する学者で、のちにミュンヘン大学の教授になった。少年はミュンヘンのギムナジウムで古典語と数学に秀で、ピアノの腕は演奏家を考えられるほどだった。第一次世界大戦の敗戦の混乱のなか、1919年には、ミュンヘンの革命政権を鎮圧する義勇軍に加わり、伝令や見張りをした。青年運動の仲間と山を歩き、野営し、焚き火のそばで哲学を語るのが好きだった。

生誕100年の記念切手
生誕100年の記念切手Wikimedia Commons Ingo Wulff für das Bundesministerium der Finanzen und die Deutsche Post AG · Public domain

ミュンヘン大学で理論物理学者ゾンマーフェルトに学び、才能はすぐに知れ渡った。ところが1923年の博士の口頭試問では、実験物理学の教授ヴィーンから顕微鏡の分解能や電池の仕組みを問われて答えられず、合格の中で最も低い成績になった。理論の天才は、実験の初歩に弱かった。

これより前の1922年、ゲッティンゲンでニールス・ボーアの連続講義を聞いた20歳のハイゼンベルクは、講義のあとで質問をし、ボーアに散歩に誘われた。そこから二人の長い師弟関係が始まった。ゲッティンゲンのボルンの助手を経て、1924年からコペンハーゲンのボーアの研究所で学んだ。

1937年、コペンハーゲン会議。エリーザベト・ハイゼンベルク(左)がボーアとハイゼンベルクと語る
1937年、コペンハーゲン会議。エリーザベト・ハイゼンベルク(左)がボーアとハイゼンベルクと語るWikimedia Commons Credit Line: Photograph by Emilio Segrè, courtesy AIP Emilio Segrè Visual Archives, Fermi Film Collection, Segrè Collect · CC BY 4.0

1925年6月、ひどい花粉症の療養のために北海の小島ヘルゴラントへ渡った。そこで彼は、原子の中で電子がどんな軌道を回っているかという、見ることのできない絵を捨て、観測できる光の振動数と強さだけを数の表で扱う方法を考えついた。島の岩の上で夜明けを迎えた興奮を、彼はのちの自伝に書いている。ボルンはその数の表が数学の「行列」であることに気づき、ボルンとヨルダンとハイゼンベルクの3人で、量子力学の最初の完成した形である行列力学を仕上げた。プランクの量子仮説から四半世紀、原子の世界を扱う新しい力学がここに生まれた。

1927年、彼は不確定性原理を発表した。電子の位置を正確に決めようとすれば運動量がぼやけ、運動量を決めようとすれば位置がぼやける。その積はある値より小さくできない。これは測る道具の未熟さではなく、自然そのものの性質だとされた。同じ年、25歳でライプツィヒ大学の教授になった。1933年、1932年度のノーベル物理学賞を受けた。

その1933年、ナチスの政権掌握が起きた。ユダヤ系の同僚や弟子が次々に大学を追われ、多くが国外へ去った。ハイゼンベルクはドイツに残った。祖国を愛していたこと、残って若い研究者を守るつもりだったことを、彼はのちに理由に挙げている。だが居残った彼も攻撃された。ナチスに近い物理学者シュタルクは、相対性理論や量子力学を「ユダヤ物理学」と呼び、1937年、親衛隊の機関紙で彼を「白いユダヤ人」と非難した。ハイゼンベルクの母が親衛隊長官ヒムラーの母と知り合いだったつてで、ヒムラーが調べさせ、1938年、彼への攻撃をやめさせた。条件は、学問の成果と研究者個人の政治を分けて扱うこと、つまり講義でアインシュタインの名を前に出さないことだったとされる。

ナチスの政権掌握に関わる図版:Hitler as young man
ナチスの政権掌握Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1939年9月、第二次世界大戦が始まると、陸軍兵器局がウランの核分裂(核分裂の発見)の利用を研究する物理学者を集めた。ハイゼンベルクはその理論の中心になり、原子炉の理論を組み立て、原子爆弾の可能性も検討した。

1941年9月、占領下のコペンハーゲンを訪れ、ボーアと二人きりで話した。何が話されたかは今も分かっていない。ハイゼンベルクは戦後、物理学者が原爆を作ることに道徳的な正しさがあるかを問いかけ、ドイツの計画が進んでいないことを暗に伝えようとした、と語った。一方ボーアは、ハイゼンベルクがドイツの勝利を確信し、ドイツがこの分野で動いていることを告げに来たと受け取り、深く怒った。ボーアが書いたまま送らなかった手紙は2002年に公開され、ボーアの受け止め方を裏づけた。この夜の会話は、マイケル・フレインの劇『コペンハーゲン』(1998年)の題材になった。

晩年のハイゼンベルクの胸像(マックス・プランク協会ガルヒング・バイ・ミュンヘン事業所)
晩年のハイゼンベルクの胸像(マックス・プランク協会ガルヒング・バイ・ミュンヘン事業所)Wikimedia Commons DroidBishop · CC0

1942年6月、ハイゼンベルクは軍需相シュペーアらに、原爆は原理的には可能だが、作るには数年と莫大な資源が要ると説明した。ドイツの計画は兵器ではなく原子炉の研究に縮み、爆弾には向かわなかった。大戦末期、研究者たちは空襲を避けて南ドイツの小村ハイガーロッホの岩窟に実験炉を組んだが、連鎖反応が持続する状態には届かなかった。1945年4月、アメリカの調査部隊が施設を押さえ、ハイゼンベルクは拘束された。

ドイツの主な核物理学者10人は、イギリスの田舎の屋敷ファーム・ホールに半年間留め置かれ、会話はすべて盗聴された。1945年8月6日の夜、広島・長崎への原爆投下の報せを聞いたハイゼンベルクは、初めは信じなかった。その後の数日で、爆弾に必要なウランの量を以前より正しく見積もって仲間に説明した。同じ夜から、自分たちは作れなかったのではなく、作ろうとしなかったのだ、という説明が仲間うちで語られ始めた。録音の記録は1992年に公開され、歴史家の議論を新たにした。

広島・長崎への原爆投下に関わる図版:Atomic bombing of Japan
広島・長崎への原爆投下Wikimedia Commons George R. Caron / Charles Levy · Public domain

戦後は、ゲッティンゲン、のちにミュンヘンのマックス・プランク物理学研究所の所長として、西ドイツの物理学の立て直しを担った。1957年、西ドイツ軍の核武装に反対する物理学者18人のゲッティンゲン宣言に名を連ねた。晩年は素粒子のすべてを一つの方程式で表す統一理論に取り組んだが、実を結ばなかった。1969年に出した対話形式の自伝『部分と全体』は、若き日の散歩や議論を生き生きと描き、広く読まれた。1976年2月1日、ミュンヘンで死んだ。74歳だった。

ドイツの原爆が実現しなかったのは、作れなかったからか、作らなかったからか。本人は生涯、どちらとも取れる言い方を続けた。科学の上での功績は揺るがない一方、戦時の振る舞いについては、今も評価が分かれている。

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