人物

ジョゼフ・リスター

Joseph Lister
AD1827年4月5日 – AD1912年2月10日(享年84)
イギリス重要度 5

概要

クエーカーの家。父は顕微鏡のレンズの色収差を直した人。グラスゴー、エディンバラ、ロンドンで外科の教授。石炭酸。初めイギリスの外科医は嘲り、ドイツとアメリカが先に採り入れた。1877年、ロンドンで膝蓋骨の骨折を、開いて針金で留めた(消毒なしでは自殺行為だった手術)。男爵、王立協会会長。うがい薬リステリンと、リステリア菌に名が残っている。

関わったできごと(1)

リスターの消毒法AD1867年 · 消毒した

本文

ジョゼフ・リスターは、1827年4月5日、ロンドンの東の郊外、エセックスのアプトンに生まれた。家は、質素と誠実を重んじるクエーカーの信徒だった。父ジョゼフ・ジャクソン・リスターはワインの商人だったが、独学で光学を研究し、顕微鏡のレンズで像の縁に色がにじむのを防ぐ組み合わせを考え出して、王立協会の会員に選ばれた人である。息子は幼いころから父の顕微鏡をのぞき込み、小さな生き物や骨の組織を見て育った。

当時、オックスフォードとケンブリッジの大学は、イングランド国教会の信仰を誓わなければ学位を与えなかった。クエーカーのリスターは、宗派を問わないロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに進んだ。学生のころ、1846年の暮れ、彼はロンドンでエーテルで患者を眠らせて脚を切断する手術を見ている。アメリカで公開されたばかりの麻酔(エーテル麻酔の公開)が、イギリスで初めて大きな手術に使われたときだった。痛みは消えた。だが、もう一つの大敵が残っていた。

エーテル麻酔の公開に関わる図版:The First Operation Under Ether - Robert Hinckley
エーテル麻酔の公開Wikimedia Commons Robert Cutler Hinckley · Public domain

1852年に医師の資格を取ると、リスターはエディンバラへ行き、イギリスで最も優れた外科医の一人とされたジェイムズ・サイムの助手になった。サイムの娘アグネスと結婚し、そのためにクエーカーを離れて国教会系の教会に移った。アグネスは生涯、夫の研究を手伝い、実験の記録を清書した。二人の間に子はなかった。

1860年、リスターはグラスゴー大学の外科の教授になり、翌年から王立診療所の外科の病棟を受け持った。そこで彼が向き合ったのは、手術そのものより、手術のあとに患者を襲う死だった。切断の手術を受けた患者の半分近くが、傷が膿み、腐り、熱を出して死んだ。病院の中で広がるこの病は「病院病」と呼ばれ、ほとんど避けられないものと考えられていた。外科医たちは、傷が空気に触れることで、空気中の何かの毒によって腐るのだと説明していた。血と膿で汚れたままの上着は、経験を積んだ外科医の誇りでさえあった。

ジョゼフ・リスターの肖像(1902年)
ジョゼフ・リスターの肖像(1902年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1865年、大学の化学の教授が、フランスのルイ・パスツールの論文をリスターに教えた。パスツールは、ものが発酵したり腐ったりするのは、空気そのもののせいではなく、空気の中に漂う目に見えない微生物のせいだと示していた(発酵は生き物の仕事である)。リスターは自分でも実験を繰り返して確かめ、こう考えた。傷を空気から閉ざすことができないのなら、空気の中や傷の中の微生物を殺せばよい。

殺すための薬として彼が選んだのは、石炭酸、すなわちフェノールだった。イングランドの町カーライルで、下水の悪臭を消すのに石炭酸が使われ、下水をまいた牧草地の牛の病気まで減ったという報告を読んでいたのである。1865年8月12日、馬車にひかれて脚の骨が皮膚を破って飛び出した11歳の少年ジェイムズ・グリーンリーズが運び込まれた。このような開放骨折は、当時は脚を切り落とさなければ、傷が腐って命を落とすことの多い大けがだった。リスターは傷を石炭酸で洗い、石炭酸を染み込ませた布で覆った。傷は膿まず、少年は6週間後に自分の脚で歩いて病院を出た。

メアリー・リスターによるアプトン・ハウスの素描
メアリー・リスターによるアプトン・ハウスの素描Wikimedia Commons Mary Lister (1820-1894), Joseph Lister's older sister. · Public domain

リスターは同じ方法で次々に治療を行い、1867年、医学雑誌『ランセット』に連載して結果を発表した(リスターの消毒法)。彼の病棟では、手術のあとの死が目に見えて減った。彼は手術の道具や糸を石炭酸に浸し、手を洗い、のちには手術の間じゅう、石炭酸の霧を噴きつける装置まで使った。

だが、イギリスの外科医の多くは、すぐには受け入れなかった。目に見えない生き物が傷を腐らせるという説そのものを信じない者が多かった。石炭酸は手を荒らし、霧は目と喉を刺した。手間がかかり、面倒だった。そして、リスターの方法を認めることは、自分たちがこれまで、知らずに患者を死なせてきたと認めることでもあった。20年ほど前にウィーンで、医師の手洗いで産婦の死を減らせると訴えたゼンメルワイス(ゼンメルワイスの手洗い)が受け入れられなかったのと、どこか似ていた。リスターの方法をいち早く取り入れたのは、むしろドイツやデンマーク、アメリカの外科医たちで、1870年の普仏戦争では、ドイツの軍医たちがそれを使って成果を上げた。

ジョゼフ・リスターの名を冠したホテル(イングランド・ヒッチン、2017年撮影)
ジョゼフ・リスターの名を冠したホテル(イングランド・ヒッチン、2017年撮影)Wikimedia Commons Jack1956 · CC0

1869年、リスターは師サイムの後を継いでエディンバラ大学の教授になった。1871年には、スコットランドの離宮に滞在していたヴィクトリア女王の脇の下の大きな膿を、石炭酸の霧の中で切開している。1877年、リスターは、最も手ごわい相手だったロンドンの外科医たちを説得するために、ロンドンのキングズ・カレッジの病院へ移った。その年の10月、彼は、皮膚の破れていない膝の皿の骨折を、わざと切り開いて骨を銀の線で縫い合わせる手術を行った。傷を開けばほぼ確実に化膿すると考えられていたので、正気の沙汰ではないと思われた手術だった。傷は膿まず、患者は回復した。この成功は、ロンドンの空気を変えた。

1880年代になると、ドイツのコッホ(ロベルト・コッホ)らによって、病気を起こす細菌が次々に突き止められ、リスターの考えの正しさは、もはや疑えないものになった。外科は、微生物を殺す消毒から、そもそも微生物を持ち込まない無菌の手術へと進んでいった。リスター自身も、石炭酸の霧はあまり役に立っていないと認め、1890年ごろにその使用をやめている。

Grove House from Bruce Castle Museum and Archive collections
Wikimedia Commons WD Sparkes · Public domain

晩年のリスターは、イギリスで最も尊敬される医師になった。1883年に准男爵、1897年には医師として初めて貴族の男爵に列せられ、1895年から1900年まで王立協会の会長を務めた。1902年、戴冠式を目前にしたエドワード7世が腸の炎症で倒れたときには、手術を担う医師たちの相談にあずかった。1893年、アグネスが旅先のイタリアで肺炎のために亡くなると、リスターは深く悲しみ、研究から遠ざかった。1912年2月10日、ケント州の海辺の町ウォルマーで、84歳で亡くなった。ウェストミンスター寺院で葬儀が営まれたが、遺言に従って、ロンドンのハムステッドの墓地に妻と並んで葬られた。

リスターの名は、思わぬところにも残っている。1879年、アメリカの医師が彼にちなんで名づけた消毒液は、のちに口をすすぐうがい薬として世界中で売られるようになった。食中毒を起こす細菌の一つ、リステリア菌の名も彼にちなむ。手術を受けることが、死を覚悟することでなくなったのは、リスターからである。

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